考えているのに、考えていない
「自分で考えろ」
あなたはこんな言葉を誰かから言われたことはないでしょうか。
親だったり、学校の先生だったり、この言葉を一番言われる機会が多いのは社会人でしょうか。
私もこの言葉を色々な人からよく言われました。
でも、この言葉を言われる前にちゃんと自分なりに考えているんですよね。
子供の頃からこの言葉をよく聞かされて育った私には、あなたの気持ちがよくわかります。
そもそも、「自分で考える」って何なのでしょうか。
その言葉の定義が人によって異なっているのも、あなたも薄々感じているはずです。
「自分で考える」ことがどういうことか正しい定義を知ると、言った側の相手が本当はどうして欲しいのか、その心理を読み解くことが出来ます。
今回ご紹介する『考える練習』は、「自分で考えろ」の言葉の定義から「自分で考える」考え方までわかりやすく解説している本です。
いつも本サイトを訪れて記事を読んでいただき、ありがとうございます。
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「自分で考えろ」とは、どういうことか
「自分で考えろ」という言葉を聞いて、あなたはその言葉の意味をどう捉えているでしょうか。
まずはこの言葉に正面から向き合ってみましょう。
本書の『はじめに』の『人生は「未知の問題」であふれている』から、「自分で考えろ」という言葉について、著者の伊藤真さんは次の通り見解を述べています。
人生は未知の問題であふれている。
なぜ自分は深く考えられないのか、悩んだことはないだろうか。
自分の考えを聞かれて中身のないことを言ってしまい、恥ずかしい思いをしたことはないだろうか。
正しいものと考えて判断したのに、後になって「なんて浅はかだったんだ」と後悔したことはないだろうか。
私達はことあるごとに、「自分で考えろ」と言われ続けてきた。
学校でも、仕事でも、自分の頭で考えられる人間が能力を発揮することを皆が経験的に知っているからだ。
実際、司法試験などに短期間の勉強で合格したり、仕事の場で活躍したり出来る人間は大抵考えている力が優れているように思う。
とはいえ、私達はどうやって考えたらいいのか。
考えるやり方についてはほとんど無知である。
そもそも考えるということが、どういうことかも教わってきていないのだ。
私達は子供の頃からずっと「自分で考えなさい」と言われ続けてきたが、何をもって考えるといい、その為に具体的にどうしたらいいのかを教わったことはないのだ。
だからなんとなく閃くのを待ったり、インターネットや書物で色々調べたりすることを「考えること」だと勘違いしてしまっている。
それでは、考える力は身に付かない。
考える練習をしなければならないのだ。
(『考える練習』より引用)
「自分で考えろ」と言われても、考え方がそもそもわからない。
だから、相手に聞いているのに、それすらも「自分で考えろ」と言われてしまう。
そんなジレンマをあなたも経験したことはないでしょうか。
そして上記の引用の通り、考え方がわからないので待ったり調べたりしてしまうわけです。
そこで次の疑問が生まれてきます。
「考える」とは、一体何なのでしょうか。
本書が定める「考える」の言葉の定義に関して、以下の通り説明しています。
私は法律家や公務員を目指す人達の為の受験指導校、伊藤塾を主催している。
塾を開いたのは、今から30年以上前になる。
これまで日本で最難関と言われる司法試験を目指す、たくさんの人達と関わってきた。
毎年多くの塾生が司法試験を始め、司法書士試験や行政書士試験、公務員試験に合格している。
伊藤塾で出会い、その後活躍するたくさんの塾生達を見ていても、考える練習をすることが何より大切であると感じている。
「頭がいい」と言われる人達は考える力が優れている。
元来、法律家は考えるのが仕事である。
法律家の「考える」は何かというと、未知の問題に対して答えを作り出すことである。
法律の世界では唯一の正解などないのだ。
自分で答えを作り出して、その答えを事実と論理と言葉で説得するのが法律家の技術である。
法律とは説得の技術なのだから、自分勝手に「これが正しい」と思い込んでいるだけではどうしようもない。
それを皆にわかってもらう為に、事実と論理と言葉で説得をするのが法律家の役目なのである。
(『考える練習』より引用)
「考える」の定義は、未知の問題に対して答えを作り出すことです。
そしてその答えは自分だけではなく、他者から見ても「正しい」と思われるために事実と論理と言葉で説得する必要があります。
つまり、法律家は「考える」ことそのものが仕事であると言えるでしょう。
著者自身も弁護士であり、司法試験を教える塾長をされているのですが、教えている生徒が「考える」ことについて誤解していると本書で話されています。
同じ章の『検索するのは、「考える」ことじゃない』から、「考える」ことについて生徒がどの様な誤解をされているのか次の通り述べています。
ロースクールに入った学生がよく失敗するのは、考えることと探し出すことを勘違いしてしまうことである。
ロースクールの授業で学生は課題を出される。
その為に予習してくるわけだが、多くの学生は図書館に行って一生懸命文献や判例を探したり、学者の論文を読んだりする。
そしてその課題に対する答えを探しまくる。
一日がかりで探しまくって、ようやくその答えが見つかると、「ああ、よかった」と胸をなでおろして翌日の授業に出席する。
先生に当てられると、嬉々としてその答えを発表し、「正解だ。よく勉強しているね」と褒められる。
そんな勉強を二年、三年続ける人が多い。
これは何の訓練をしているのかと言うと、リサーチの訓練だ。
法律家になる訓練ではない。
文献など色々な情報を集めてきて、答えらしきものを探し出すリサーチはパラリーガル、つまり法律家の秘書の仕事である。
法律家は集められた情報の中にはないことを導き出すのが仕事である。
だから三年間、必死になってロースクールでリサーチャーになる訓練をしてきた人間が現場に出て法律家になると、「ちょっと使えない」という評価になってしまう。
与えられた課題に対して、同じように答えを探しまくってしまうからだ。
(『考える練習』より引用)
先述した引用でも触れていましたが、私達は「調べる」ことが「考える」ことだと勘違いしがちです。
ロースクールの生徒を例に挙げていますが、その様に考えている人は多いはずです。
なんなら、私も「調べる」ことが「考える」ことだと思っていました。
学校でリサーチの訓練をし続けていると、社会に出た時にその方法が全く通用しなくなるのは、働いたことのある方なら共感されたはずです。
また、「調べる」と「考える」には次の様な大きな違いがあります。
せっかく勉強してきたのに、「君は調査能力は優れているんだけどねぇ、法律家には向いてないね」と言われてしまうのはあまりに悲しい。
その失敗の大きな原因は、「考える」ということがわかっていなかったことに尽きるだろう。
他人が考えた答えを探すのは、「考える」ではない。
それは単なる「調査」、「リサーチ」である。
その証拠に、リサーチをしている時は答えを見つける作業に没頭していて、考えてはいない。
自分では考えているつもりでも、実は単なる作業をしているだけで何も考えてはいないのだ。
もしリサーチをしながら考えるとすると、自分なりの新しい答えを作り出すために目的意識を持って探すのでなければならない。
まだない答えを作り出すために文献を調べるのと、すでにある答えを見つけるために文献を探すのとでは、外から見た行為は全く同じでも中身はまるで違うのである。
(『考える練習』より引用)
あなたは調べている時に、ちゃんと考えていたでしょうか。
調べている時を思い返すと、「答えを見つけること」に意識が全て傾いていたはずです。
私も正にそうでした。
上記の引用の通り、調べている時に考えてはいませんでした。
しかし、ここでまた新たな疑問が生まれます。
なぜ、考える必要があるのでしょうか。
「自分で考えろ」と言われても、自分で調べられる能力があれば、それでいいのではないでしょうか。
今はインターネットがこれだけ世の中に普及していて、それに加えて高性能なAIまである時代です。
法律家にとっては仕事をする上で考えることが必要かもしれませんが、私達には本当に考えることが必要なのでしょうか。
著者は考えることが必要な理由を、「自分が生き延びるため」と答えています。
同じ章の『「考える力」が人生の不安を解消する』から、そう答えた理由を以下の通り説明しています。
そもそも、人生は未知の問題であふれている。
普段から自分の頭で考えないでいると、人の指示に従ったり、集団についていったりするしかないだろう。
だが、人の指示や皆の意見が正しいとは限らない。
自分に降りかかった火の粉は自分で振り払わないと、誰も責任は取ってくれないのだ。
人は生きている間にきっと何かの問題に直面するだろう。
それを乗り越えたり、解決したりする方法をちゃんと自分の頭で考えられる方が人生がより楽になるし、幸せに生きられる。
だから、考える練習を重ねていればあなたという個人がより幸せに生きられる。
自分以上に自分のことをちゃんと考えてくれる人は他にいない。
(『考える練習』より引用)
先程、調べている間は考えることをしていないということを説明しました。
確かに何かを調べている時は、答えを見つけようとすることで頭がいっぱいで考えていないことがほとんどです。
それでは、情報や他者の意見に流されているだけだと指摘されるのもわかる気がします。
何かを調べて、そこで見つけた答えが間違っていても、自分の調べる力が足りなかったからではなく、間違った答えを書いた相手に非があると思ってしまうのがその証拠です。
それでは、自分で出した答えに責任が取れていません。
「調べる」ばかりで意思決定をし続けてしまうと、次第に自分の人生にも自分で責任が取れないようになります。
すると、どうなるか。
周りの顔色や意見ばかり気にして、自分で何もかも決められない人生を歩むわけです。
「考える」には、「自分で決められる」ことも内包されています。
もちろん、自分で考えたからといって、それがいつも正しい答えになるとは限りません。
ですが、生き続けている限りは何度でも、自分の頭で考える場面というのは出て来ます。
そして、それは自らの意思で物事を選択し続けているのと同義です。
その時に「調べる」よりも「自分で考える」方が人任せにしない分、幸せに生きられるでしょう。
では、「自分で考える」とは、具体的にどういう考え方をすればいいのでしょうか。
それは論理的に考えることです。
第3章の『「論理的」に考える練習』の『「論理的に考える」とはどういうことか』から、次の通り説明しています。
「自分で考える」には、「論理的に考える」
法律は論理的に考えて作られている。
だから、法律の世界の考え方は論理的に考える練習を行う上で参考に出来るものが多い。
まず、そもそも論理的とはどういうことだろうか。
簡単に言うと、「AだからBです」というとき、「Aだから」というその「だから」の部分がどれだけ納得出来るものなのかが論理である。
AだからCやDではなく、なぜBなのか。
選択肢がたくさんある中で、なぜBが最も合理的なのか。
他ではなぜダメなのか。
それを考えるのが論理的である。
「今日はお腹が減ったな。だからカレーを食べよう」と言った時、なぜそばではなくカレーなのかを合理的に説明出来れば、それは論理的ということになる。
「カレーだから、カレーなんだ」では論理にならない。
それを踏まえて「論理的に考える」を私なりに定義してみると、論理的に考えるとは、目的を持って一定の結論を根拠と共に導くことと言える。
だから目的は必要だし、結論も明確にしなければならない。
そして結論を明確にするためには、根拠が決定的に重要となる。
もっと平たく論理的に考えるとは、根拠を持って説明出来ることと言い換えてもいい。
それは結局、他者が理解出来るように考えるということだ。
独りよがりではなく、他人が理解出来るように考え、伝えることが論理的に考えることの意義であるし目的である。
一生懸命考えても、それが支離滅裂だったり説明出来なかったりして、他者に理解して貰えなかったら悲しい。
せっかく考えるのであれば、ある程度論理的に考えることが大切だろう。
そうすることで考える過程が整理されて検証しやすくなり、考えの間違いを正したり、より進化させていく足掛かりになるのだ。
(『考える練習』より引用)
「論理的に考える」だけ聞くと、何だか難しいことのように聞こえますが、その本質は一言で言い表せます。
それは「他者が理解出来るように考えること」です。
「自分で考えろ」と言われた時に、「自分」という部分に注目してしまいがちですが、本当に意識を向けるべきなのは「他者」のことです。
どれだけあなたが自分で考えていても、それが相手に伝わらなければ意味がありません。
それに相手のことを先に意識すると、自分のこともより深く考えられるようになります。
その根拠に関して、同じ章の『「悩み」も論理的に解決できる』から以下の通り解説しています。
私がイメージする論理的に考える行為は、相手または自分自身に物事を伝えるという二つの場面で必要とされる。
つまり、一つは相手に何かを伝えるために論理的に考えることだし、もう一つは自分の中でより深く納得する為に論理的に考えることである。
このうち、後者の自分の中でより深く納得するというのはどういうものか。
それは例えば、自分はこれからどうしたらいいのかという不安に対して、それを解決する為に考えるというような場合が想定される。
就職先を決めるのにどうしたらいいのか。
司法試験勉強を続けるべきか、止めるべきか。
この会社を辞めるべきか、残った方がいいか。
など、自分の中の悩みを解決する為に論理的に考えるという行為があるのだ。
いずれにしても目的は、問題や課題の解決である。
論理的に考えるとは、目的を持って一定の結論を根拠と共に導くことと定義したが、それは何らかの課題に対しての結論を根拠を持って導くという頭の使い方そのものであると言い換えられる。
例えば、説得したいがために論理的に考えるのだとしたら、説得したいという課題、目的が明確にあるわけだ。
すると、まず初めに重要なことはその課題を明確にすることである。
何を伝えたいのか、何をしたいのか。
伝えたいこと、したいことがなければ、そもそも論理的に考えようという発想にいかないだろう。
(『考える練習』より引用)
論理的に考えるとは、相手に何かを伝えるだけでなく、自分自身をより深く納得させてくれる側面もあります。
「何を伝えたいのか」や「何をしたいのか」という思いをより深く掘り下げていくと、自分がどうしたいのか本当の気持ちに気付けます。
悩みを抱えていると「辛い」とか「苦しい」などの感情が先に来て、悩みに向き合うことが出来ません。
しかし、論理的に考えることで自分自身をより深く納得させようとすると、悩みに正面から向き合えるようになります。
さらにその悩みに対する思いや考えを自分だけではなく、相手にも伝えることが出来るようになるので、「辛い」とか「苦しい」などの感情をあなた一人で抱え込まなくても済むようになります。
ここまで「論理的に考える」とはどういうことかと、その利点について見てきました。
ただ、論理的に考えることをいつも行う必要はありません。
日常生活で論理的に考えるのは、使いどころが重要です。
その使いどころに関して、次の通り解説しています。
ある男女がいるとしよう。
お互いに理解し合っていて、「好き、好き」と言い合える恋人の間では論理は必要ない。
「なぜ私があなたのことをこんなに好きなのか」ということを、論理的に根拠付ける必要はないはずだ。
感情やフィーリングで十分伝わっていて、理解出来てしまっているから、わざわざ論理を持ってくる必要性はない。
ところが、二人の間で意見が食い違った時は、恋人同士や夫婦の間であっても論理が必要になる。
例えば、妻は仕事がしたい。
しかし、夫は妻が家から出ることに反対だ。
そこは感情やフィーリングでは伝わらない。
「オレはこんなに君のことを思っているのに、何でわからないんだ」と感情をぶつけても、伝わらないのである。
そういう時はある程度の論理を使い、相手が理解出来る共通の概念や言葉などを示しながら説得することになる。
そうしないで頭ごなしに否定しても、全く理解されないだけでなく、しこりが残ってしまうだろう。
論理的の反対は感情的だ。
もちろん、感情でも伝わることはいくらでもあるから、それでいい場面もある。
だから論理的に考えていい場面と、感情や需要を大切にする場面は、時と場合によって区別をしなくてはいけない。
(『考える練習』より引用)
自分と相手との間に意思疎通がちゃんと出来ていて、伝えたいことが互いに共有出来ていれば論理は必要ありません。
しかし、意見が食い違った時など、問題が生じれば論理は必要になります。
その様な場面で感情をぶつけてみても、理解されなかったり、しこりが残ってしまうのはあなたも見たり、経験したことがあるはずです。
論理は、お互いが同じ土俵に立っていなければ成り立ちません。
片方が論理的に考えていても、もう片方が感情的になって、感情で訴えかけてしまうと話は平行線をたどるだけです。
論理で相手に伝えようとする際は、まず相手も同じ論理の土俵に立ってくれるかを確認する。
そして、相手が理解出来る共通の概念や言葉などを使いながら、自分の考えを相手に伝えます。
舞台が整って初めて、論理的に考えることが活かされるわけです。
この「相手が理解出来る共通の概念や言葉」を、本書では「物差し」と呼んでいます。
「物差し」は論理的に考える上で一番鍛えなければいけない部分なのですが、見落としてしまいがちなところでもあります。
「物差し」がなぜそれほど重要にもかかわらず見落としてしまうのか、同じ章から『相手と共有できる「物差し」を見つける』でこの様に説明しています。
「物差し」があれば、自分で考えられるだけでなく相手にも伝えられる
現状分析をし、目的まで到達する過程が自分で納得出来なければ、結論とはならない。
他人に説明する時も、その過程に相手が納得し、使った物差しを理解してくれないと説得は出来ないだろう。
また、別の例で考えてみよう。
例えば、転職について。
夫は会社を変わりたいが、妻が反対したとする。
夫は自分が結論まで導いた過程を理解して貰って、「こういう物差しがいいよ」と納得してもらわなければならない。
そしてこの会社に転職したら、こういう結果になるだろうという事実を当てはめて、評価に共感して貰えれば、妻から「いいわね」と納得が得られる。
このプロセスは結論が決まっていない時だけでなく、もう結論が決まっていて相手に説得する場合にも応用出来る。
あたかも結論がわからなくて、自分で考えた時の様な論理の流れを遡って説明すればいいのだ。
自分が辿ったのと同じ思考のプロセスを逆算して、相手に辿ってもらうことでより説得力は増すはずだ。
いずれにしても重要なのは、何が問題なのかという課題や目的とどういう結論を導き出したいのか、その根拠付けである。
根拠付けは理由付けと言ってもいい。
自分で考える時は、自分で納得出来る根拠。
相手に説明する時は、相手も納得出来る根拠に基づいて説明出来るかどうかが、論理的に考えるということだ。
論理的ではないというのは、根拠付けをすっ飛ばして結論だけ言うから、なぜそうなったのか理由、根拠がわからない状態を意味している。
もし相手から、「それはあなたが勝手にそう思うだけでしょ」、「独りよがりでしょ」、「意味がわからない」などと言われてしまうとしたら、それは根拠付け、理由付けのところが伝わっていない。
つまり、共通の認識が持てていないことの何よりの証拠である。
論理的に考えるために一番鍛えなければならないのは、まさしく相手と共有出来る根拠付け、理由付けを考える習慣だろう。
(『考える練習』より引用)
自分の中ではわかっているのに、それを相手に伝えようとしても伝わらなかった。
そんな経験をされたことが、あなたにもあるのではないでしょうか。
その原因は共通の認識を持たないまま、自分の根拠を相手に伝えたからです。
だから、上記の引用の様な白けた反応を相手からされてしまったのでしょう。
相手に何かを伝えようとした際に「自分で考えろ」という言葉以外に、「相手の立場になって考えろ」という言葉を言われたことはないでしょうか。
この「相手の立場になって考える」ことが共通の認識を持つことです。
私達は自分が理解したことをつい勢いのまま、相手に伝えようとしてしまいます。
それでは相手に伝わらないことはこれまで述べた通りです。
なので、まずは自分と相手の中にある共通の認識について、伝えようとする前に予め理解しておかなければなりません。
相手がどんな性格なのか、普段何の話をしているのか、どんなことに興味があるかなど、相手のことを知れば知るほど共通の認識は持ちやすくなります。
そこから得た知識を基に自分の伝えたいことを擦り合わせていくと、相手にも伝わるようになるでしょう。
先程、「論理的の反対は感情的である」と述べました。
論理的と似たような言葉に、「理論的」があります。
同じ様な言葉ですが、この二つの言葉には明確な違いがあります。
その違いに関して、同じ章から『「説明しないと伝わらない」が前提』で以下の通り解説しています。
ところで、「論理的に考える」のと似た言葉に、「理論的に考える」がある。
両者は似ているが、全く別物だ。
理論的に考える方は何か決まった理論があって、それに当てはめて考えていくことだ。
論理的に考える方は、目的を持って根拠付けを行いながら自ら結論に導いていく過程のことを言う。
論理的に考えることにおいては根拠付けが重要になる。
なぜ需要なのかと言うと、相手と自分は異なる存在なのだという大前提があるからだ。
自分と他人は違うのだから、伝わらなくて当たり前。
説明しないと伝わらない。
そういう前提で考えた方がいい。
だから、共通に理解し合えるところまで深く掘り下げて、伝えていくために論理的に考えることが必要になってくるのだ。
(『考える練習』より引用)
論理的に考える行為の背景には、「自分と他人は違う」という考えがあります。
当たり前のことなのですが、相手に伝えようとする時にここが忘れてしまいがちなところでもあります。
それは「相手にわかって欲しい」という思いが強すぎてしまうからです。
「相手にわかって欲しい」は「相手もわかってくれるはずだ」という思いに変わりやすく、そうなると感情的になってしまい、論理を忘れて感情で相手に訴えかけてしまいます。
ですが、上記の引用の通り、自分と相手は違います。
どれだけこちらが頑張ったとしても、相手に伝わらないこともある。
それは自分と相手が違うからです。
自分の願望を相手に押し付けるのではなく、相手の意見も尊重する。
これが「論理的に考える」ということです。
「論理的に考える」ことでもう一つ誤解されがちなのが、言葉で相手を打ち負かすイメージが強いことです。
そんなイメージがあるのは、「ひろゆき」の愛称で有名な西村博之さんの影響が大きいと思いますが、「論理」とは相手を言葉で打ち負かすことではありません。
これも本書が定義する「論理的に考える」とは違います。
本書が定義する「論理的に考える」について、著者は次の通り見解を示しています。
結局、論理的に考えるとは他者を尊重するということになる。
相手の立場を尊重したり、相手の立場に立ったりするから、相手にもわかるように論理的に考えて説明しようと思うのである。
裁判や法律が論理的なものというイメージがあるのは、人はそれぞれ違っていて、対立することもあるので、論理的なものが必要になるからだ。
そう考えると、ディベートと論理的に考えるのも少し違うことがわかる。
ディベートは勝ち負けの世界だが、論理的に考えるのは勝ち負けではない。
むしろ、いかに相手と共有出来るかということを目的としているから、説得に近い。
相手に自ら納得して動いたり、行動したりしてもらうために、論理的にこちらの考えを伝えていくことが目的だ。
決して相手を言い負かしたり、自分の立場を押し付けたりするために、論理的な考え方が存在しているのではないことを覚えておかなければいけない。
自分と相手はそもそも違う。
誰一人、同じ人間はいない。
だから、共通の物差しを探し、歩み寄る。
論理的に考えることは相手に対する優しさの表れである。
(『考える練習』より引用)
論理的に考えることも、物差しを探そうとするのも、全て相手に歩み寄ろうとする思いからです。
自分と相手がお互いに同じ方向を向いて、共に前に進みたいという思いが根底にあります。
ここがディベートと決定的に違うところです。
言葉で相手を言い負かそうという思いはそこにはありません。
「自分で考える」ことも同じです。
これまで述べてきた通り、「自分で」という言葉が付いていますが、相手のことをまず先に考えなければなりません。
それもただ相手のことを考えるのではなく、相手を尊重する気持ちを持つことが大切です。
自分で考えたことには愛着が湧くからか、「自分の意見の方が正しい」という気持ちが強くなることがありますが、それをそのままぶつけてしまうのはディベートです。
相手と自分の考えを共有するのが目的だということを忘れないでください。
「自分で考えろ」と言われたことは、私もたくさんあります。
この言葉は語尾が強いので、反発してしまう気持ちもとてもよくわかります。
ただ、こうして「自分で考える」ということを見直してみると、相手を尊重したり歩み寄ることが出来ていなかったことに、あなたも心当たりがあったのではないでしょうか。
本書を読んでいて、私もたくさん心当たりがありました。
先程、論理は相手も同じ土俵に立ってくれないと成立しないという話をしました。
「自分で考えろ」と言った人は、論理ではなく感情でその言葉を言ってしまったのかもしれません。
ですが、あなたには感情ではなく、論理の土俵に立って欲しいのです。
お互いが感情の土俵に立ってしまうと、意見のぶつかり合いになるだけなのはあなたも経験されてきたはずです。
ですから、これからは論理の土俵に立ってみてください。
同じ論理の土俵に立ってくれた相手に敬意を示せるようになり、考え方だけではなく人との関わり方も大きく変わるはずです。
そしてそこから見える景色は、今までとは違った景色が見えるでしょう。
では、どうすれば論理的に考えられるようになるのか、その具体的な方法や手順に関する続きは、読者に歩み寄った丁寧でわかりやすい文章で本書に記載されています。
あなたが本書が定義する自分で考えられる人になるために、本書をぜひ読んでみてはいかがでしょうか。
本記事を最後までお読みくださり、ありがとうございました。
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