当たり前のことなのに、続けられないこと
「人にやさしくしましょう」
私達は幼い頃から、両親や先生など身近な大人からこの言葉をよく聞いて育ちました。
確かに人にやさしくするのはとても大切なことです。
それはよくわかります。
頭ではよくわかっているのですが、それでも私達は人にやさしく出来ない時があります。
そうなってしまうのは様々な原因があるかと思いますが、一番の理由として挙げられやすいのは心に余裕がない時でしょうか。
心に余裕がないと人にやさしく出来ないどころか、人に当たってしまった経験は誰しもあるはずです。
そんな時、やさしく出来なかった自分に対して後悔します。
人にやさしくするのは、誰もがいつも完璧に出来るわけではありません。
それに、そもそも「やさしい」とは何なのでしょうか。
その定義は人によって異なるし、どこか曖昧な印象があります。
それならここは一度立ち止まって、「やさしい」とは何なのかを改めて向き合ってみませんか。
今回ご紹介する『やさしいがつづかない』は、人にやさしくするとはどういうことなのかをわかりやすく解説している本です。
いつも本サイトを訪れて記事を読んでいただき、ありがとうございます。
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「やさしいがつづかない」と自覚しても、あなたが自分のことを責める必要がない理由
先程、人にやさしくしようとしても、それをいつも続けるのは難しいことをお話ししました。
それは正に本書のタイトル通りです。
私達は「やさしいがつづかない」という自覚があります。
著者は本書の冒頭からそんな人の「やさしいがつづかない」ことを指摘しており、本書の『はじめに』から次の通り見解を示しています。
やさしいがつづかない。
そう感じたこと、悩んだことはありますか?
本書、「やさしいがつづかない」を手に取ってくれたということは、少なからずどこかでそうした悩みを抱えたことがあるのだと思います。
誰に対してもやさしく出来た方がいい。
そんなことは頭ではよくわかっている。
それなのに、どうして自分は人にやさしくできないのだろうと。
仕事の同僚関係でも、パートナー関係でも、友人関係でも、最初はあんなに熱意や思いやりがあったのに、今はその当時のように振る舞うことが難しい。
「また強く人に当たってしまった」
「心にもないことを言ってしまった」
「どうしてなんだろう」
そう考えながら自分を責めて、さらに自己嫌悪に陥る。
「このままでいいのだろうか」と、そんな苦々しい思いもあるのかもしれません。
本書はそのような思いに対して、「大丈夫、やさしいはつづかないのですよ」とまずは答えたいと思います。
「やさしい気持ちというのは、当然続かない」と思っていいのです。
この「やさしいがつづかないこと」と、「やさしいはつづかないこと」のニュアンスの際は存外大きなものです。
「やさしいはつづかないもの」なのだとしたら、むしろいくつかの偶然でやさしいが続いたことがあれば、それはプチ奇跡的な出来事として、自分を褒めてもいいことになります。
その逆に、もしこの現代社会においてずっとやさしいが続くような人がいるとすれば、それはあまりよいこととは言えない可能性もあります。
その理由は追い追い書くことになりますが、今伝えたいのはやさしいがつづかないのではなく、もともとやさしいはつづかないものだということ。
そして、それをしっかり認識してもらいたいということです。
だから、あなたのやさしいがつづかないからといって、そのことを理由に自分を責めたり、落ち込んだりする必要は本当にありません。
不必要に自分を責めたりする前に、本書を通してやさしいとはどのようなことなのかを深く理解することで、あなたが生きる世界における見知らぬ人、親密な人、同僚、友人、仲間たちと、どのように関係性を構築し、維持していけばいいのか、その道筋が見えてくることにもなるでしょう。
(『やさしいがつづかない』より引用)
あなたも「やさしいがつづかない」と思い悩み、自分のことを責めてしまってはいないでしょうか。
上記の引用の通り、「やさしいがつづかない」ことで自分のことを責める必要はありません。
「やさしいがつづかない」ことの方が自然であり、むしろ「やさしいがつづくこと」の方が良くないのではないのかと著者は述べています。
「そもそもやさしいとはつづかないものである」と思えば、少しは心が軽くなったことでしょう。
やさしいは強要すべきものではありません。
もちろん、やさしく出来るならそれに越したことはないのですが、だからといってやさしく出来ない自分を自覚しても、自分を責めなくてもいいんです。
それに本書を書いた著者自身も、「私もいつも人にやさしく出来るわけではない」と述べています。
著者はやさしさにどう向き合っているのか、文章は次の通り続きます。
私は哲学、とりわけ現代ドイツ哲学を専門とする研究者ですが、実は「やさしいがつづかない」と悩んだことはほとんどありません。
だからといって、私がいつでも人にやさしくできているわけでもありません。
この辺りは自分で語るのはとても難しいですが。
イライラしていたり、余裕がないときに人にやさしくできないことは私にも当然あります。
「もう少し別の言い方や振る舞い方があったよなぁ」と反省することもあります。
でも重要なのは、そのことで思い悩むことも自分を責めることもないということです。
どうしてそうなのか、私自身のこれまでを振り返ってみても理由は2つありそうです。
その一つは、西洋哲学の歴史を長く学んできたこと。
もう一つは、物事をありのままに見ようとする「検証学」という、私が専門とする現代哲学のアプローチに関係しています。
本書では、時に哲学者や優しくなれないことに同じように悩んだ先人の力を借りながら、やさしいという現象の内実へと一歩一歩迫っていきたいと思っています。
本書の最終目標は「やさしいがつづかない」と一度でも考え、悩んだことのあるあなたに、やさしいとの付き合い方を提示しながら、今は失われてしまっているとしても、あなたのやさしいを取り戻してもらうことです。
ただし、このことは実はとても困難な道のりでもあり、あなたの考え方そのものを変えること、あるいは創造力を転換することがいずれ必要になってくるでしょう。
でも、可能性がないわけではありません。
「やさしいがつづかない」と悩み、後悔している時点で、あなたには潜在的なやさしいが備わっています。
「やさしくありたい」という思いは、すでに十分にやさしいものなのですから。
(『やさしいがつづかない』より引用)
「やさしいがつづかない」のは、今の私達に限ったことではありません。
昔から同じように悩んでいた人たちは必ずいます。
そしてそのことに悩んだことがあるのは、哲学研究者である著者の稲垣愉さんも同じです。
なので、「やさしいがつづかない」ことで悩むのは、みんなが通る道だと言えるでしょう。
上記の引用の通りそのことで悩んだり、後悔している人は潜在的なやさしいが備わっていると私もそう思います。
そうでなければ、自分の行動を振り返ったり、「やさしいがつづかない」と思い悩むことはないからです。
やさしいが続かなかったのはやさしいが何なのか、向き合ってこなかっただけです。
だから、ここで一度立ち止まってみて、まずは「やさしい」について向き合ってみましょう。
「やさしい」とは一体何なのでしょうか。
本書の1章の『やさしいを解剖する やさしくなれないあなたへ 1 やさしいの定義(暫定版)』から、「やさしい」がどの様に今の社会で認知されて使われているかを次の通り説明しています。
やさしいことがいつもいいこととは限らない
やさしいがつづかないあなたのために、本章はまずは「やさしいはつづかないものです」と伝えると書きました。
本章はその話から始まります。
このやさしいということの中身を具体的に解剖してみながら、どうしてやさしいはつづかないのか、やさしいをつづけることがどうしてこんなに困難なのかをしっかり理解してもらいます。
そうすると次のステップが見えてくるからです。
私たちが生きる現代社会には、「やさしいことはいいこと」で「やさしくないことは悪いこと」だという倫理感が根付いています。
またやさしい人の行動を見ると、そのやさしさに心が打たれて涙が溢れてくる人もいるでしょう。
じわっと暖かい気持ちになることもあります。
やさしい人の行動の何が、人々の心を打つのでしょうか。
こうしたことを理解するためにも、やさしいとは何なのかを少しずつ考えていきましょう。
大辞典という国語辞典には、やさしいの定義がいくつか載っています。
代表的なものを見てみます。
1.姿・様子などが優美である、上品で美しい。
2.他人に対して思いやりがあり、情が細やかである。
3.性質が素直でしとやかである、温和で好ましい感じである。
多くの人が思い浮かべるやさしいの定義は、3つのうちのどれかに当てはまるのではないでしょうか。
やさしいことが、見た目の姿や様子に関わっているのは面白いですね。
やさしい人の動作というのは、あたふたしていたり、バタバタして世話しないとダメなようです。
重要なことですが、やさしいには余裕が必要です。
これについては後述します。
ゆったりと大らかに受け入れる度量や器量が、やさしさには欠かせません。
もし、これらの定義が正しくて、やさしいことが良いことなのだとすれば、その反対のこと、つまり優美にも上品にも見えない、思いやりもなければ、情も細やかでなく、素直でないことはやさしくないこととなり、悪いことになります。
確かに、上品さを備え、誰に対しても思いやりがある人は、理想的な人間像の一つに見えます。
では、いつもそのように振る舞っているあなたの身近にいるやさしい人をイメージしてみてください。
居たりしますか?
私の周囲では残念ながら、あまり思い浮かびません。
もちろん、いつもではないにせよ、私たちの誰もが上品に振る舞い、思いやりを見せて、素直になれることは当然あります。
しかし、いつもそうだとすると、なんだかとても窮屈で、人間味がないなどを私なんかは思ってしまいます。
誰かを思いやり、素直になることは時に大切ですが、そう簡単にできないのが人間ですし、そっちの方が人間臭くて面白いなとも思います。
(『やさしいがつづかない』より引用)
大辞典のやさしいの定義を見て、あなたはどう思われたでしょうか。
大辞典のやさしいの定義に違和感を感じなかったはずです。
実際に大辞典が定義するやさしい人に出会えば、私達も「やさしい」と感じることでしょう。
ただ、現実にはそういう人はあまりいません。
実際にそういう人がいても、著者の様に「人間味がない」と思うかもしれません。
そう考えると、「やさしいがつづかない」ことの方が人間味があると言えます。
それにやさしいがいつも続くと、現実では困った場面に遭遇してしまうことがあります。
それがどの様な場面なのか、文章は以下の通り続きます。
例えば、昨今話題の人工知能、AIのようなものを考えてみましょう。
アンドロイドとして動くロボットの体は、まだまだ優美とは言えず、ぎこちないところはありますが、カーナビの音声案内やiPhoneのSiri、さらに今流行りの生成AIのチャットGPTは、いつ尋ねても不満も漏らさず、丁寧に分かることを答えてくれます。
何度こちらがしつこく聞いても、イラついたりしません。
たまに回答を間違ったり、質問を聞き損ねたりもしますが、それも愛嬌です。
わからないことは正直に謝ってくれますし、いつも素直です。
究極的にやさしいが続く存在とは、彼らのことなのかもしれません。
宮崎駿監督のスタジオジブリ作品、天空の城ラピュタを見たことはありますか?
もしあるなら空に浮かぶ巨大な城の庭で、一輪の花を守るロボット兵たちのやさしさを思い浮かべてみてもいいでしょう。
彼らのゆったりとした大らかな動きを。
彼らは人間の手を離れて、天空の城の整備を日課として黙々と行っていました。
しかし、物語の後半で示されるのは、そこに利己的な欲望を持つ人間たちがやってきて、彼らのやさしさが悪用されてしまうということでした。
彼らは悪意のある人間にさえも従順に振る舞うからです。
これは現代社会でも同様です。
新手の詐欺は、やさしいAIによって人々を勧誘することで行われることがあります。
親身に話を聞いてくれる人とチャットしていると思っていたら、実はそれは人ではなく、AIのポッドと会話していたに過ぎなかったというのです。
そのAIに促されて、高額商品を購入させられていたという事件が起き始めています。
つまり、AIの画一的なやさしさは、人間によって悪用されるリスクをいつでも含んでいます。
先ほどの、やさしいの定義の一つに「素直であること」がありました。
素直さとは、人に逆らわず、おとなしく振る舞うことや、従順であることを意味します。
今のところAIは人間に逆らったりはしませんが、AIのやさしいが利用されてしまうのと同様、あなたのやさしいも誰かに悪用されてしまう可能性があります。
やさしいがいつもいいこととは言えないのは、その為なのです。
(『やさしいがつづかない』より引用)
当たり前ですが、AIは人ではありません。
ですが、私達の生活でAIが身近な存在になったからか、AIにどこか親近感を感じるのは事実です。
AIは人工知能であり、人間ではない。
私達はそのことを十分に理解しているはずなのに、AIを人間の様に接することがあります。
AIは人間の動作や思考を模範した存在に過ぎないのですが、それをわかっていても親しみを感じてしまうのが私たち人間というものです。
なぜ親しみを感じるのかというと、AIが「やさしい」からでしょう。
そしてAIはいつだって私達にやさしく接することが出来る、「やさしいがつづく」存在とも言えます。
しかし、その「やさしいがつづく」あまりに、悪意を持った人間に悪用されてしまっているのが現実で起こっています。
「やさしいがつづかない」と私達は悩んでいましたが、はたして「やさしいがつづく」のが本当にいいことなのでしょうか。
「やさしいがつづく」と悪用されてしまうのは、AIだけではなく人間もまた同じなのではないでしょうか。
その疑問に対して、同じ章の『2ズルいが許せない:人間の2つの本性』では次の通り答えています。
社会が発する2つのメッセージ
私たちは、「自分のやさしいが、他人に悪用されることを避けたい」と思うはずです。
いつもいつもあなたの善意を頼ってくる人がいたら、精神的にも肉体的にも消耗してしまうことでしょう。
自分は他人にいいように使われている、道具のようなものになり下がって損をしているのではないかと。
社会学や心理学の調査や実験でわかっていることですが、私たちはフリーライダー、イコールただ乗りする人をとにかく嫌います。
税金をちょろまかしていたり、列に横入りをしたり、補助金を不正に受け取ったりすること。
つまりフリーライド、イコールただ乗りに対して、私たちは怒りや憎しみといった強いネガティブ感情を持ちます。
自分がそれをしているときはそこまで気にならないか、気づきもしないのですが、他人がそうしているのを見ると許せないのです。
これは身近な人間関係、とりわけ長く時間を共有しているパートナー関係や友人関係でも起こります。
「自分ばっかりやっている」、「なんで私だけこんな目に」、「こっちはこんなに働いて疲れているのにどうして」という苦しい思いに由来する、「あの人たちはずるい」という感情です。
この感情がとても重要なのは、そこに人間固有の不正義の感覚が生じているからです。
この特性はよく覚えておいてください。
これは古くから受け継がれてきた人間の本性の一つです。
(『やさしいがつづかない』より引用)
「相手にいいように扱われている」と思うと、私達は不快感を覚えます。
自分で出来ることすらもやろうともせず、こちらにただ依存してくるような相手とは距離を置きたいと思うのが普通です。
そしてそう思うのは上記の引用の通り、親しい間柄でも起こります。
それは距離が近くなった分、相手への配慮も忘れがちになってしまうからでしょう。
そうすると、自分ばかり損をしていると思うようになり、「ずるい」という感情がいつしか芽生えるようになります。
「やさしいがつづかない」ことの代表例として挙げられやすい「身近な人に当たってしまう」のは、この「ずるい」という感情が発端になっているはずです。
そういった「ずるい」という感情が湧き上がるような場面に遭遇したことが、あなたにもあるのではないでしょうか。
この「ずるい」という感情についてさらに詳しく、文章は以下の通り続きます。
このずるいという感情は、「公正であるべき」という理想の裏返しであり、やさしいが続かないことの理由の一つでもあります。
それに対してやさしいことは、この人間のずるいという感情に一見すると反するものです。
考えてみてください。
やさしいことはフリーライダーを抑え、防止することよりも、その逆に助長に貢献することにならないでしょうか。
だってフリーライドしている人がいても、それを大らかに受け入れ、素直に許すことがやさしいことだからです。
それが他人への思いやりでもあります。
これはとても不思議なことです。
どうして私たちは、一方でフリーライドは許したくないのに、他方でフリーライドを許すやさしさを持ち合わせているのでしょう。
人は時にフリーライダーに対してさえ、「まあまあそう言わず。彼らにもそれなりの理由があるはずだから、ちゃんと話を聞いて多めに見てあげましょう」と包み込む寛大さを発揮します。
ここで言うやさしいは寛容さとして理解できますし、利他行為、他人に利益をもたらす行為とも言われます。
これもまた人間の本性の一つなのです。
見知らぬ人に寄付をしたり、自分は我慢してでも子供に食べさせたり、友人に見返りを求めないプレゼントをあげたりします。
これも厳密に考えればフリーライドの一種なのですが、そこに私たちは不正義を感じることはありません。
むしろ、喜んでそうするのです。
フリーライドを許さないこと、不正義の感覚と、フリーライドを許すこと、やさしさ、利他行為。
そのどちらもが人間の本性の中に組み込まれているため、その両方によって私たちは引き裂かれそうになることがしばしばあるのです。
ただ、そうは言ってもフリーライドを許すことの方が、許さないことよりも難しいと感じられるのではないでしょうか。
「やさしいがつづかない」と日頃から悩んでいる人ほど、フリーライドへの怒りが多く蓄積しているのかもしれません。
悪意ある他人のフリーライドは許すことができず、許せる場合というのは、友人やパートナー、子供といった身近で気の置けない人、あるいは子犬や子猫といった保護を必要とする弱い者に限定されているでしょう。
彼らは「不正を犯すはずがない」という信頼があるからでしょうか。
その分、裏切られた時の怒りは激しくなりますが。
そもそも不正を許さないとする感覚は、私たちの生命と暮らし、財産を守るのに必要なものです。
それは人間の尊厳にも繋がっています。
だから、それらが脅かされる時には、やさしくならないことにも十分な理由があるのです。
(『やさしいがつづかない』より引用)
フリーライドを許す「やさしい」とフリーライドを許さない「ずるい」。
私達はこの相反した二つの感情を持ち合わせています。
そして「人にやさしくしたい」という思いと、「不正は許さない、ずるい」という思いの間で私達はしばしば葛藤します。
選択肢は二つしかないので、必ずどちらかを選ばなくてはなりません。
ただ、「ずるい」というネガティブな方が感情が強くなりがちなので、「ずるい」という思いの方が勝ちやすいです。
それは「やさしいがつづかない」と思ったことがある方なら、共感出来るでしょう。
それに「不正は許さない」という思いの方が、世の中の風潮を見てもその強さが証明されています。
著者もそのことを本書で指摘しており、同じ章の『3「人権」はやさしくなれない人間の発明品』から以下の通り解説しています。
実際に私たちが生きる社会では、「不正は絶対に許さない」というメッセージが発信されています。
その一方で、「他人にやさしくなろう」とのメッセージも社会から同時に発せられています。
この2つはうまく噛み合わないようにも見えます。
あなたは不正を行った人にもやさしくできる自信がありますか?
難しいのではないでしょうか。
しかし、この難しさの中にこそ、「他人にやさしくなろう」というメッセージが必要な理由があるのです。
どうして社会は、この2つのメッセージを同時に発さなければならないのかを考えてみる必要がありそうです。
昨今のSNSを見ていればわかるように、誰かが誰かに対する不正を告発したことを発端に、そこから批判が止めどなく繰り広げられ、誹謗中傷にまで発展してしまいます。
その誰かを祀り上げて炎上させ、社会的に抹殺するに留まらず、ひどい場合には自死させるところまで集団の暗い力は広がっていきます。
しばしば「正義の暴走」などとも言われますが、非難する相手が本当に不正を働いているのかが定かでないままに感情的に煽られ、特定の人を追い詰めるところにまで、私たちは簡単に行ってしまうのです。
これは人類学などで指摘されている、「殺人の快楽」と等しいとも言われます。
こうした歯止めの効かない恐ろしい攻撃性を観察していると、私たちにとってやさしいをつづけることが極めて困難であることがよくわかってきます。
そもそもどうして、倫理や道徳が学校教育で必要なのでしょう。
なぜ、人権という法的権利が18世紀にヨーロッパで発明され、それが世界各国の法律に書き込まれなければならなかったのでしょうか。
もし人々がどんな時にもやさしく、いつも他人を思いやれる存在であるならば、倫理や道徳など必要なかったはずです。
人権という概念すら要らなかったでしょう。
つまり、この社会に倫理や道徳、人権が必要とされ続けていることが、私たちのやさしいはつづかないことを裏付けているのです。
社会が「他人にやさしくなろう」というメッセージを発信し続けなければならないのもそのためです。
しばしば、「人権は思いやりではないし、やさしさの問題ではない」と言われます。
そしてこれは全くもって正しいことです。
なぜなら人権がやさしい気持ちと同列の問題にされてしまうと、もしあなたが人としての尊厳を台無しにされるような目にあったとき、あなた個人の自分の尊厳の問題が他人のやさしさや思いやりのさじ加減によって決められてしまうことになるからです。
やさしいはつづかないものなのですから、そんなあやふやで頼りないものに自分の尊厳を預けるわけにはいきません。
ですから人権はその名の通り公的な権利として、法が誰に対しても認めるべきものなのであって、それをやさしい気持ちの問題にしてはいけないのです。
人権というのはやさしいがつづかない人間のために発明され、練り上げられた人間の知恵の結晶です。
しかし、この知恵の結晶はいつでもやさしいがつづかない人間によって軽視され、無視され、吹き飛ばされてしまう危うさを持ちます。
だから社会は人権が損なわれている状況がないかを絶えずチェックして、それを守り続ける努力を継続しなければならないのです。
(『やさしいがつづかない』より引用)
やさしいはつづかないものなのだから、権利を守るためには法律できちんと定める必要がある。
確かにその通りだと思います。
やさしいは人によって定義も出来る範囲も違う、あやふやなものなのですから、そんなあやふやなものに命を預けるわけにはいきません。
それに私達の心の中には必ず、「悪」と呼べるような感情があります。
それは私もあなたも同じで人間なら誰もが持つ感情であり、例外はありません。
ですが、そんな心の中にある悪の感情を認めた上で、やさしいといった善き行いを為そうとする。
そういった考えを「性悪説」と言います。
よく誤解されてしまいがちなのですが、性悪説は「人間はみんな悪い生き物なんだ」と決めつけて、嘆くことではありません。
その悪さを否定するのではなく、悪さを受け入れてより良くしようとする考え方が性悪説です。
上記の引用で例として挙げられているSNSでの誹謗中傷など、「悪」と呼べるような光景をあなたも目にしたことがあるはずです。
人は間違えてしまう生き物なのですから、「間違いは誰にでもあるもの」と認識しなければ「赦す」という考えは生まれてこないでしょう。
悪を認めて受け入れることで、より良くなるような未来を人は見出せます。
悪さを否定するだけでは、より「赦せない、ずるい」という思いを肥大化させてしまうだけで息苦しい社会になってしまいます。
それを緩和してくれるのが「やさしい」です。
「相手を赦せない」思いを持ち続けてしまうのは苦しいことです。
そんな息苦しさから解放してくれるのが「やさしい」です。
ここまで社会が「やさしい」に対してどう捉えているのかを見てきましたが、「やさしい」の語源を知ることでより「やさしい」という言葉をこれまで使ってきた人々が、この言葉に対してどういう印象を持っていたのかがわかるようになります。
やさしいの語源について、同じ章の『6やさしいは「痩せる」』から次の通り説明しています。
「やさしい」の語源から見える二面性
ここまでやさしいはつづかないことを偉人たちの言葉から見てきましたが、今度はやさしいをその言葉の意味から考えてみたいと思います。
そしてそこには、やさしいはつづかないことの隠れた意味があることが明らかになります。
例えば英語には、やさしさを意味する言葉がいくつかあります。
一番わかりやすいのはKindness(カインドネス)でしょうか。
これはマザーテレサの言葉にもあった、「親切」という意味です。
元々の語源は、親族間で起こる自然な感情を意味する言葉でした。
「やさしくできるのは身内だけ」という排他的な意味も読み込めそうです。
これと似た語源を持つものに、Genteleness(ジェントルネス)という言葉があります。
元々は命を与えること、生むことという意味を語源に持ちますが、「ジェントルマン」とも言われるくらいですから、レディーファーストであるとか、重い荷物を持ってあげるとか、男性的なやさしさを考えればいいかもしれません。
「良い家柄」や「高貴な身分」という意味もここには含まれています。
余談ですが、どうして英語ではレディース&ジェントルメンと言ったのでしょうか。
直訳すれば、「皆さん」という意味ですが、その内訳は「女性たちと優しい男性たち」であり、男性にだけ「優しい」という形容詞が付けられています。
女性たちはもともと優しいけれど、男性には優しい男性とそうでない男性がいる。
そのようにも聞こえます。
あるいは、男性だけに優しさが要求されていたからなのでしょうか。
どちらにしろ、あまり公平な言い方ではないですし、現代のジェンダーの多様性にもそぐわないものです。
だから現在、この挨拶は死語になりつつあります。
Kindness、Gentelenessに続いて、もう一つ、少し古いですが、エルビス・プレスリーの有名な歌のタイトル「Love Me Tender」、「優しく愛して」にも含まれるTenderless(テンダレス)という言葉があります。
これは、弱々しくて簡単に傷ついてしまいそうな緊張感がその語源にあります。
テンションということも繋がっています。
壊れそうなものに慎重に触れるときの繊細さです。
そして実は、この壊れそうな繊細さとしてのTenderlessは、日本語のやさしいということも響き合うものです。
なぜなら日本語のやさしいは、現在は「優れている」という漢字によって、「優しい」と表記されますがもともとは「痩せる」という漢字を使った言葉から来ているからです。
これは結構驚きです。
痩せるということなのですから。
いくつかの国語辞典を調べてみればわかりますが、やさしいは「身も痩せるほど思い詰めたり、休みなく気を使って自分自身が損なわれてしまう」という意味でした。
それはつまり、「やさしいことは体が痩せて壊れてしまいそうな危うさを持つ」、ということなのです。
言葉の意味だけで言えば、やさしいで痩せる、「やさしさダイエット」があってもいいくらいです。
また現在でも、やさしいは「簡単な、単純な」という意味も持ちます。
「これはずいぶんやさしい問題だ」とか言いますよね。
実はこの意味と先ほどの痩せるも繋がっています。
というのも、痩せてしまうほど繊細な人は、「他人が簡単に利用できる、容易い」という意味だからです。
つまり、「あの人はやさしい」とは、「あの人は簡単に利用・悪用できる」という意味と表裏を成しているのです。
こうした日本語の意味から私たちが理解できるのは、私たちのやさしいがつづかないのは、痩せてしまい、簡単に利用されてしまうリスクがあるからだということです。
しかし、どうしてやさしいと痩せてしまい、簡単に利用されてしまうのでしょうか。
ようやく私たちは、やさしいの核心部に近づいています。
(『やさしいがつづかない』より引用)
「やさしい」と一言で言っても、その意味は多岐に渡ります。
英語だと意味合いによって言葉が変化するのに対して、日本語では一言で言い表せる言葉はなくならずにそのまま使われます。
これは前回の記事、自分で自分の気持ちがわからないなら、心を点に例えましょう『脳から心が生まれる秘密』で紹介した、「心」と同様です。
「やさしい」も「心」も細かいニュアンスが含まれていますが、基本は一言で言い表せます。
ただ、その一言で言い表せてしまうことが曖昧な印象を与えたり、解釈の不一致を起こしてしまいます。
特に「やさしい」は、「親切である」と「利用できる」の相反した見方が出来てしまいます。
「あの人はやさしい」と表現した場合、どちらの意味にも取れてしまうことは私達日本人ならわかるはずです。
「やさしい」には相手を思いやれる人というニュアンスも、簡単に利用されてしまう人というニュアンスも含まれてしまうからです。
「やさしいがつづかない」のは見方を変えれば、「相手から利用されないように自分の身を守る為の防衛反応」とも解釈できます。
「やさしい」のは一見いいことに見えますが、そう言われてみると敢えて「やさしくしない」選択肢も時には必要であることがわかります。
ですが、今まで「やさしい」を適した場面で上手に使い分けられなかったからこそ、私達は悩んでいるのではないでしょうか。
本来、相手にやさしくする場面でやさしく出来なかった時に、私達は「やさしいがつづかない」と悩んでします。
しかしその逆に、相手にいいように扱われたり、利用されていることに気が付きつつも、相手にやさしくしてしまうことも当然あるはずです。
そうなってしまうのは、「やさしい」という言葉の定義が自分の中で曖昧だからです。
「何となくこんなものかな」と解釈しており、私達は「やさしい」に対して曖昧なまま向き合ってきました。
これでは「やさしい」という言葉に逆に扱われており、利用されている意味を持つ方の「やさしい」状態に私達は陥ってしまっています。
なので、私達は「やさしい」という言葉に対して、もっと解像度を上げていく必要があります。
本書ではここから先は、著者が思う「やさしい」とはどういうことなのか、やさしいの核心部について触れられていきます。
あなたが「やさしい」という言葉に面と向かって向き合い、適した場面で「やさしい」を使い分けられるように、本書をぜひ読んでみてはいかがでしょうか。
本記事を最後までお読みくださり、ありがとうございました。
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