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AIに相談しても、最後に行動を決めることが出来るのはあなただけです『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』

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目次

老若男女問わず、身近で話を聞いてくれる存在

身近で話を聞いてくれる人を思い浮かべたとき、あなたはどなたのことを思い浮かべますか?

両親や友人、親戚の人などを思い浮かべたことでしょう。

ですが、今では話を聞いてもらう相手が「人」ではなくて、「AI」であることが珍しいことではなくなりました。

何かわからないことがあったら、Googleなどの検索エンジンで検索するのが少し前だったら主流だったはずなのに、今ではチャットGPTなどのAIに聞くのが主流になりました。

その流れからか、自分の話や悩みをAIに聞いてもらう人が年々多くなっています。

しかし、先日そのことがニュースになってしまうことがありました。

巨人の監督の阿部慎之助さんが長女に暴行を加え、長女がチャットGPTに聞いて対応を求めたところ、「児童相談所に問い合わせるべき」というAIが提示した答えを実行し、父親である巨人の監督が連行されてしまうという事件がありました。

長女の行動から、「もしわからないことがあったら、AIに聞けばいい」という思考が読み取れます。

しかし、彼女はなぜAIを頼ろうとしたのでしょうか。

それは「AIに聞けば、正しい答えを教えてくれる」と思っていたからでしょう。

ただし、AIがいつも正しい答えを導き出すとは限りません。

それに「身近に頼れる存在がAIだった」というのも、個人的には気になります。

友達などに話を聞いてもらうのではなくて、AIを選んだところにも彼女がAIを信頼しているのが伺えます。

ですが、AIを信頼しているのは彼女だけではありません。

AIが日常生活にすっかり溶け込むようになったからか、私達はAIに親近感を感じています。

果たして、このままAIに親近感を感じたままで本当にいいのでしょうか?

AIは人工知能であって、人ではありません。

なぜ、私達はAIは人ではないとわかっているにも関わらず、AIをこれほどまで身近な存在として受け入れてしまうのでしょうか。

そんな私達とAIの関係性について、独自の見解でわかりやすく解説している本が今回ご紹介する『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』です。

いつも本サイトを訪れて記事を読んでいただき、ありがとうございます。

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本書の前提となる定義

著者の前野隆司さんは元はロボット工学の研究者でしたが、「幸福学(ウェルビーイング)」と呼ばれる心理学の第一人者でもあり、現在は大学でウェルビーイングを専門に教えている大学教授です。

機械工学にも、幸福学にも精通している著者ですが、そんな著者がAIについて語る前に、「まず押さえて欲しいことがある」として、本書の『はじめに』から次の通り説明しています。

「自由意志はない」

この文章を目にしたとき、多くの人は違和感を覚えるかもしれません。

私たちが日々感じる「自分の意思で物事を選び、決断している」という感覚とはかけ離れているように感じられるからでしょう。

しかし、この問いは科学と技術の進展により、今や哲学の枠を越え、私たちの現実に深く関わる問題として浮かび上がっています。

本書では、「自由意志」というテーマを科学的、技術的な観点から再考し、現代のAI技術や脳科学の進展がこの問いにどのように影響を与えているのかについて述べたいと思います。

まず、このテーマに取り組む上で重要なのは、「自由意志はない」という前提を受け入れてみることでしょう。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

「私たちが今感じているこの意識というものを、そもそもないものとして考える」とは、なかなか難しい前提だと思われたかもしれません。

ただ、この「自由意志」というのが、科学や哲学でも重要な要素であることは上記の引用から読み取れます。

なぜ、著者は「自由意志はない」という前提をまずは受け入れることが大事だと考えているのでしょうか。

その理由について、以下の通り答えています。

もちろん、科学者や哲学者の間でこの議論は今も続いており、結論は出ていないというべきでしょうが、私自身は様々な学術的研究結果に基づき、「自由意志はない」と考えるのが妥当だと考えています。

そこで、本書ではこの視点に立ちます。

私たちが自由意思について抱く直感的な感覚は、実際には脳の働きや外部の影響に依存した結果と考えられます。

私たちが「自由に選んでいる」と感じている行動の大部分は、無意識的な脳の働きや過去の経験、さらには社会的環境的な要因に影響されています。

本書では、これらを裏付ける脳神経科学や心理学の研究結果について説明します。

例えば、ある選択をした後にその理由を説明する場合、実はその選択そのものがすでに脳内であらかじめ決定されている場合があります。

このような事実が示唆するのは、私たちが自由意志で決めたと感じていることが、実は脳内での無意識的な過程による決定に基づいているということです。

さらに、現代の技術、特に人工知能、AIの進歩がこの問題を新たな次元に引き上げました。

近年、進展が著しい生成AIは、「入力された文字列からその先の文字列を予測する」という機能によって文字列を生成します。

文字列以外のパターンの場合も同様です。

つまり、生成AIは自由意志による選択をしていません。

それにも関わらず、AIはまるで生きている人間であるかのように会話をすることが出来ます。

このような技術が進歩する中で、「私たちの選択は本当に自由であるのか、それともAIと同様に無意識的に生成されたものに過ぎないのか」という問いが生じます。

AIが何の意志も持たないにも関わらず、自由意志のようなものを示すことを目撃するにつけ、自由意志という概念の存在がどれほど曖昧なものであるのかを再認識せざるを得ません。

つまり、「生成AIが自由意志を持たないのに、自由意志であるかのような選択を行っていることが不思議」なのではなく、「そもそも人間もAIと同様に自由意志による選択をしていなかったのではないか」と考えるべきなのです。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

当たり前ですが、AIは人工知能なので、AIには意志がありません。

膨大なデータからAIにとって最適な答えを提示するだけで、そこにAIそのものの意思は存在していません。

しかし、人間も何かを決断する時は、知識や過去の経験などそれまで生きてきて蓄積された膨大なデータから選んでいます。

選んでいるのは、実は意識ではなくて、無意識が先に選んでおり、無意識が選んだ答えが意識によって浮上することによって、「私たちは自分で選んでいる」と思っています。

つまり、無意識が先に決めており、意識が後になってわかるのだから、この「何かを決めている」という意識である「自由意志」は元々存在しないのではないか。

上記の引用で著者が述べていることを嚙み砕いてわかりやすく説明すると、この様な意味になります。

「私たちに自由意志がない」という著者の主張は、ここまでの説明で理解することが出来ました。

では、私たちが「自由意志がない」と認識すると何が変わるようになるのか、以下の通り文章は続きます。

人類は1000年以上も前から、「人間は自由意志を持つか持たないか」という論争をしてきましたがAIやロボティクスの進歩に伴い、自由意志論争が再燃せざるを得ない時代がやってきたということです。

私たちが行う選択の責任や倫理も大きな課題となります。

私たちがAI同様に無意識的な予測に基づいて選択を行っているに過ぎないのであれば、私たちの選択は果たして本当に自由であると言えるのでしょうか。

それとも、私たちが選んでいると思っていること自体が、AI同様に脳の無意識的な過程に操られている結果に過ぎないのでしょうか?

これらの問いは単なる技術的な問題にとどまらず、社会全体の倫理観や価値観に深く関わる問題です。

「自由意志はない」という前提を受け入れることによって、私たちは新たな地平に立つことができます。

それは、自由意志からの自由です。

自由意志の存在に囚われることから、人は自由になれるのです。

そして、その理解を基にAI技術が私たちの生活にどのような影響を与えるのか、またそれが私たちの自由意志にどのように関わるのかを考えることができます。

自由意志という概念が、現代の技術や科学の進展と共にどのように変化していくのかを追求することは、私たちの幸せな未来のために重要な意味を持つでしょう。

本章を通じて、読者の皆様が自由意志という概念に対する、古くて新しい視点を得られるならば幸いです。

AI が進歩し続ける時代において、人間の選択とは一体何なのか、自由意志とはどのようなものなのかを深く掘り下げ、考え直すきっかけとなれば、著者としてこの上ない喜びです。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

「自由意志がない」とだけ聞くと、まるで私たちが意志を持たないまま生きているように感じられたかもしれません。

そうではなくて、「無意識が最初から全て決めている」ということです。

あなたが今この記事を読まれているのも、あなたが「読みたい」と思う自由意志からではなくて、無意識があなたに興味を持たせて読ませるように判断させているから。

つまり、意識の源泉は無意識にあるのですから、無意識に着目して認識を変えれば、私達の意識である自由意志も同時に変えられることが出来るのではないかということです。

ですが、私たちは無意識で何が行われているのか何も知りません。

「意識」が「無い」と書いて無意識なのですから、当然でしょう。

では、その無意識に意識を向けると、どの様な仕組みになっているのでしょうか。

本書の第一章『自由意志は存在しない』の『ベンジャミン・リベットによる世紀の実験』から、無意識のある特性について次の通り説明しています。

無意識は意識よりも先に動き出している

自由意志の問題に対して、重大な知見をもたらしたベンジャミン・リベットの有名な実験があります。

1983年、カリフォルニア大学サンフランシスコ校の神経生理学者であったリベット教授は次のような実験を行いました。

被験者には静かに椅子に座ってもらい、テーブルに手を置いた状態で、目の前にある時計を見ながら、自分の好きなタイミングで手首、または指を動かすという課題を実施しました。

被験者には、「今から手首を動かそう」と自発的に意図した瞬間に時計を見るよう、あらかじめ指示されていました。

さらに、被験者の頭部には電極を取り付け、身体の運動に関連する脳波を記録できるようにしました。

その結果、実際に手首が動く瞬間の0.55秒前から、脳がすでに手首を動かす準備を始めていることが明らかになりました。

運動を司る脳波は、手や足が動き始める直前から、すでに無意識のうちに運動の準備を行っているのです。

この時、脳内から発せられる指令信号は「運動準備電位」と呼ばれています。

言い換えれば、手首を動かした瞬間の0.35秒前には、すでにこの運動準備電位が生じていたということです。

運動準備電位が手首の動きに先行していたこと自体は、特に驚くようなものではありません。

というのも、「脳がまず手首に対して指令を出し、それに従って手首が実際に動く」という順番は予想通りだからです。

しかし、本当に驚くべきなのは「手首を動かそう」と本人が意図した瞬間よりも、0.35秒も前に運動準備電位が生じていたという事実です。

直感的には、まず被験者が手首を動かそうと準備し、その指令が脳に伝わり、無意識のスイッチが入り、運動準備電位が生じた結果、最終的に手首が動くという順番を想像します。

しかし、実際の順番は異なっていました。

「手首を動かそう」と意識した瞬間よりも0.35秒前に、すでに無意識の領域で運動準備電位が生じており、さらに意識した瞬間よりも0.2秒後にようやく手首が実際に動いたのです。

つまり、本当の順番はこうだったのです。

まず、脳の無意識を司る部位が動き出し、その後に「手首を動かそう」という意志が生まれ、最後に実際に手首が動く。

全ての始まりは脳が動かそうという意識下で意図することではなく、それよりも前に無意識の脳内で手首を動かすための準備が始まっていたということです。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

無意識の反応で最初に思い付くものと言えば、「反射」でしょうか。

熱いものに手が触れると思わず手を引っ込める、あの反応のことです。

手を引っ込めるのは体の危険を感知して無意識に行っているわけですが、上記の実験では状況が違います。

自らの意思で「手首を動かそう」と決める前から、無意識では手首を動かす準備が始まっていました。

これは意識よりも先に、無意識は手首を動かすことを知っていたことになります。

「意識が行動を先に決めて、その後に無意識が来る」とこれまではそう思われていましたが、実験結果では予想とは逆の結果になりました。

この実験結果について、世界中の学者たちは次の様な反応を示しました。

この結果に世界中の学者たちは驚きました。

哲学者ジョン・サールは、「もしこれが事実だとしたら、それは宇宙最大の冗談に違いない」とまで語ったと言われます。

科学では、同じ実験が何度も再現できなければなりません。

そのため、リベットはこの実験を繰り返し行いましたが、毎回同じ結果が得られました。

他の心理学者たちも同様の実験を行い、やはりリベットと同じ結果を確認しています。

さらに2008年には、ジョン・ディラン・ヘインズを中心とした研究チームが、最新の技術を使って運動準備定義とある種の意思決定についての実験を実施しました。

その結果、意識が「これから動かそう」と感じるよりも、なんと7秒も前から、すでに脳内で運動準備電位が生じていることが明らかになりました。

これら一連の実験結果から導き出される結論は、私たちが「自由な意思で決断した」と感じる前から、脳はすでに無意識のうちに活動を始めており、私たちはその結果として「自分が決めた」という感覚を後から持たされているということです。

にもかかわらず、私たちはあたかも自分で自由に選び、決断しているかのように感じて生きているのです。

つまり、自由意志とは幻想であるということになります。

なお、意志よりも先に働き出すこの無意識の活動が、「一体何をきっかけに、いつから始まるのかは解明されていない謎だ」という人もいますが、私は脳のエネルギーの節約だと思います。

脳での計算を一定期間内に集中的に行うと、コンピューター同様、脳もパンクする。

だから、もっと早めに始めておいても問題ないタスクは、早めに始めているというだけのことなのではないかと思います。

何か意思決定するための脳内の計算のうち、早めに準備しておいても差し支えないことは用意周到に準備しているということなのではないでしょうか。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

リベットの実験は世界中で行われ、同様の結果が得られることが証明されています。

意識よりも無意識が先に活動を始めていて、その後に無意識が意識に「自分で決めた」という感覚を与えている。

だから、自由意志というのは元々ないから幻想であるというのが著者の主張です。

もしかしたら、「手首の運動といった簡単な実験だけで、そう判断するのは早計ではないか」と思われたかもしれません。

その疑問に対して、同じ章の『長いスパンの決断も「無意識」が下すのか?』から著者は以下の通り答えています。

先ほど紹介したリベットの実験結果を知ってもなお、「自由意志が幻想だなんて、やっぱり信じられない」と感じる人もいることでしょう。

例えば、「手首を動かすというような単純な動作だけを見て、それだけで全ての意思決定について同じことが言えるのか」と疑問を抱く人もいるでしょう。

この点について、リベットは著書、「マインドタイム」の中で次のように述べています。

私たちが研究したのは単純な行為でしたが、それ以外の自発的な行為にも、無意識のノープロセスと、意識を伴う願望や行動の意思の表れとの間に見られるような、時間的な条件で決まる関係があると考えられるでしょうか。

技術的な制限のある科学研究では、まずは単純な系であるプロセスを研究することがよくあります。

その単純で基本的なことが発見できれば、後に技術的な限界を克服した上で、それがより複雑な他の系にも共通するかを確認できるからです。

(中略)

実際、行為を準備する無意識のノープロセスが話し始めたり、書き始めたりといった、より複雑で自発的な工事の行為においても、先行して働くことを他の研究者たちが発見しました。

つまり、手首を動かすといった単純な行為に限らず、より複雑な意思決定においても、今行動しようとする意思よりも先に無意識が動き始めるということです。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

意識よりも無意識が動き始めることは、研究者たちの他の実験でも明らかになっています。

行為が単純か複雑に関わらず、無意識が先に動き出していることを実験で突き止めました。

では、もし無意識が先に動き始めているのならば、それが私達の生活にどの様に影響しているのかを著者は以下の通り考察しています。

「どんな職業を選ぶのか?」、「誰と結婚するのか?」といった人生の一大決断から、「今日は何を食べようか?」、「どの洗剤を買おうか?」といった日常の些細な選択に至るまで、全ての意思決定において、意思よりも先に無意識がその決定の準備をしているのではないでしょうか。

例えば、「医師になろう」と、今決めたつもりになっている人がいるとします。

この人は5年前に何らかの出来事があって、医師になることに興味を持ったかもしれません。

本人が「医師になろう」と決断したのは、今だと感じているかもしれませんが、実は5年前にその準備は脳内で生じており、その準備のもとで「本人は決めたと感じている」と考えることもできます。

つまり、人生を左右するような重大な決断も、短期的にしか影響しない日常の小さな決断も、実は全て無意識によって先に決められていると考える方が妥当なのではないでしょうか。

その目的は、前に述べたように、脳のエネルギーを一度に使わないようにすることです。

「医師になる」と決めるためにできることは、早めに準備しておいた方が容易周到、準備万端ではないでしょうか。

さて、「もし無意識が全てを決めているのだとすれば、意識は何のためにあるのか?」、「私という存在は何なのか?」という根本的な疑問が浮かんできます。

次の項目では、この意識のメカニズムについて考えていきます。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

確かに、無意識が先に全てを決めてしまっているのなら、意識は何のためにあるのでしょうか。

意識の役割とは一体なのでしょうか。

同じ章の『私という存在を形作る「意識」とは何なのか?』から、意識について著者は次の通り見解を示しています。

脳の司令塔は意識ではない

本書において、意識とは、自分の今の状態や注意の状況などを認識できている状態のことを指します。

さらに意識は、思考、感情、意図や意志、記憶、学習といった広範囲にわたる脳内活動を制御・統合する働きを担っていると一般には考えられています。

そのため意識は、あたかも脳の司令塔のように主体的に活動していると認識されがちです。

しかし、これまでに述べてきたように、実際には「意識は無意識に従っているにすぎない」と考えなければ説明できない研究結果があります。

意思は意識が行う情報処理の中でも、特に主体的でトップダウン的な印象を与える処理であると考えられがちですが、これまで述べてきたように、意思よりも先に無意識が決断を下していると考えるなら、意思が主体であるという見方は幻想です。

簡潔に言えば、「自由意志は幻想である」ということです。

意思は意識の一部ですが、意識が行っている意思以外の処理、すなわち、思考、感情、記憶、学習もまた幻想だと考えることができます。

詳細は第2章にて講述します。

要するに、意識とは、無意識の内に脳が行った情報処理の結果を、後から知覚し、まるで自分が主体的に行ったかのように錯覚する仕組みだと考えられます。

この考え方を私は「受動意識仮説」と呼んでいます。

この概念については後ほど詳しく説明します。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

意識が脳の司令塔のように、主体的に活動しているという感覚はわかる気がします。

立ち上がるのも、歩くのも、今こうやってあなたが記事を読まれているのも、全て意識がそう命令した結果だと考える方が正直しっくりくるでしょう。

しかし、実際は無意識が先に全てを決めているのだから、無意識が意識に錯覚させてそう思わせているだけに過ぎない、と言うのが著者の提唱する「受動意識仮説」です。

ただ、意識についてはまだわからないことも多く、そのことに関して以下の通り文章は続きます。

そもそも意識には、「物質である脳が、どのようにして非物質的な意識を生み出すのか」という根本的な問題があります。

これは未だに解明されていません。

なお、脳のどこで何が行われているかについては、ある程度まで理解が進んでいます。

例えば、記憶について言えば、新たに得た情報はまず海馬に一時保存されて整理され、その後、大脳皮質に長期記憶として移されます。

この過程でニューロン、神経細胞同士の接続部であるシナプスでの神経結合荷重が変化し、記憶が定着すると考えられています。

つまり、「脳内で情報がどのように処理されているか」という点については、ある程度解明されていますが、「意識はなぜ、どのように生じるのか」という問題は依然として未解決のままなのです。

さらに、意識に関しては未解明の問題が他にもあります。

代表的なものが、バインディング問題とクオリアの問題です。

しかし、これらの問題についても、「意識とは、実は単純なメカニズムで構成されている」という仮説を立てれば、長年謎とされてきたこれらの問題にも答えられると私は考えています。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

現在の研究では、「脳内で情報がどのように処理されているか」まではある程度解明されていますが、「意識はなぜ、どのように生じるのか」という問題はまだわかっていません。

さらに、意識には未解明の問題がまだあります。

その代表的なのがバインディング問題とクオリアの問題ですが、クオリアの問題は意識により密接に関わりのある問題なので、当記事ではクオリアの問題について取り上げます。

では、そのクオリアとは一体何なのか、同じ章の『「自分で決めている!」という感覚は「クオリア」』から次の通り説明しています。

人間とAIの違いはクオリア

では、意識は脳が作った幻想というのは、具体的にどういう意味なのでしょうか。

私たちは普段、自分の自由意志に従って行動を選び、その行動を実際に実行していると思っています。

つまり、「自分で決めた」という自由意志や、「私という意識がある」という幻想を持って生きているのです。

この「自由意志がある、私という意識がある」と感じてしまう前提として、クオリアという働きがあります。

何かを決めたり、行動を起こしたりするとき、私たちは「自分が決めて動いている」という生き生きとした感覚を持ちますが、それはクオリアと呼ばれます。

では、クオリアとは何でしょうか?

クオリアとは、何かを感じたり、考えたりする時の意識が持つ質感のことを指します。

例えば、赤いリンゴを見た時の赤さ、美味しい料理を食べた時の美味しさ、絵画を鑑賞して感じる色の濃淡など、意識の上で感じる全てがクオリアです。

クオリアは大きく「感覚的クオリア」と「思考性クオリア」の2つに分けられます。

感覚的クオリアは、外部の刺激に対して個人が主観的に感じる感覚のことです。

先ほどの例で言えば、赤いリンゴの「赤さ」がこれに当たります。

一方、思考性クオリアは、自分の脳内で情報処理が行われた結果として生まれる感情や気持ちの質感を指します。

「感動して、泣きそうになった」という感覚がそれです。

現在のところ、AI、人工知能は人間のような生き生きしたクオリアを感じることができません。

さらに、どのような計算をすればクオリアを生み出せるのかも分かっていません。

そもそもクオリアをAIで再現できるのかどうかも不明です。

この点が人間とAIの違いの一つです。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

クオリアは人間だけが持っている独自の感覚です。

チャットGPTなどのAIに質問したときに、「どこか無機質っぽい」と感じたことはないでしょうか。

そう感じること自体もまたクオリアなのですが、そう感じているのはAIにクオリアがないからかもしれません。

クオリアと言う独自の感覚を持ち、その感覚を言葉を使って互いに共有出来るからこそ、人間の方が親しみやすさや暖かさを感じやすいのではないでしょうか。

しかし、クオリアにはまだ解明されていない謎があります。

では、その謎とは一体何なのか、同じ章の『クオリアは幻想』から以下の通り解説しています。

では、クオリアの問題とは何でしょうか?

それは「物質である脳から、どのようにしてクオリアが生まれるのか?」という謎です。

例えば、赤いリンゴを見たとき、リンゴに反射した光が目に届き、電気信号に変わって視神経を通り、脳へ送られます。

脳ではニューロン、神経細胞が電気信号を出し、その信号が脳内を巡ることで「リンゴが赤い」と感じます。

リンゴも、光も、ニューロンも、信号も、すべて物質や物理現象ですが、私たちが感じるリンゴのあの赤い感じそのものは物質や物理現象ではないように感じます。

さらに、リンゴが反射する光は600から700ナノメートルの波長の接触光ですが、そもそもリンゴが赤いわけではありません。

人の目が赤として認識するのは、脳がそのように変換しているからです。

つまり、脳という物質の中でも電気信号のやり取りの結果として、リンゴのあの赤い感じという物質とは異なる何か、クオリアが生まれるのだと考えられます。

これが意識の最大の謎です。

クオリアが脳の中でどう作られているのかはまだわかりません。

ただ、人の脳は多数のニューロン、小びとたちが結びついたニューラルネットワークの塊であり、小びとたちの無意識の情報処理も、それを意識下で感じるクオリアも、脳のニューラルネットワークによって作り出されていると考えられます。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

著者は人の脳内にある多数のニューロンを「小びと」という言葉で表現していますが、これはアメリカのコンピューター科学者であり、人工知能の父とも呼ばれたマーヴィン・ミンスキーの著書、「心の社会」の中で、脳の無意識的な情報処理システムについて、用いられた例えから来ています。

その著書の中では、「意識とは、意識を持たないたくさんの小びとたちが集まってできた社会である」と表現されていますが、ここで言う「小びと」とは、脳の中の「ニューラルネットワーク」のことです。

本書ではこの「小びと」という言葉で、「ニューラルネットワーク」を表現しています。

小びとと擬人化すると、それぞれが意識を持つような気がするかもしれませんが、それぞれの小びと、モジュールが独立して機能を担当しており、意識は持たず、ただ個々に処理をこなしているという意味であることが、本書では述べられています。

では、この小びとたちであるニューラルネットワークは、クオリアにどの様な作用をもたらしているのでしょうか。

文章は以下の通り続きます。

つまり、ニューラルネットワークの発火という物理現象が、私たちの個人的なクオリアを生み出していると考えられます。

こうして意識に送られたものが、初めてクオリアとして自覚されます。

例えば、「リンゴのあの赤い感じ」という感覚的クオリアや、「リンゴを食べたら美味しいだろうな」という思考的クオリアを感じるわけです。

このことからわかるのは、意識は全てを決める主体的存在ではなく、無意識の小びとたちに追従するだけの存在であること。

小びとたちがそれぞれ自立分散的に情報処理することで、人の意識や自由意志、クオリアが生まれているということです。

小びとたちが生み出した結果を後から把握するための装置が意識であり、つまり意識や自由意志は脳が作り出した幻想にすぎません。

自由意志だけでなく、思考や感情も自分で考え、感じているように思えるものの、全て無意識の小びとたちの活動に従う受動的なものと考えられます。

「いいアイデアを思いついた」、「夕日を見て感動した」、「美味しいものを食べたい」、「お金を儲けたい」、「有名になりたい」と感じることも、私という意識が主体的に決めているわけではないのです。

こう考えると、「私という意識は存在しない」、「生き生きと感じているクオリアも存在しない」と言えます。

私たちの意識も、意識が作り出す自由意志も思考も感情も、生き生きとクオリアがあるように感じられるものの、実は全て幻想であり、そのクオリア自体も幻想なのです。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

著者の主張は「私という意識は存在しない」のだから、「生き生きと感じているクオリアもまた存在しない」ということですが、ここでまたひとつ疑問が生まれます。

「存在しない、幻想だ」というのなら、なぜクオリアは人間に備わっているのでしょうか。

意識についても同じことを先述で述べましたが、クオリアが本当に幻想で意味がないのなら、人間の機能としてはとっくに廃れているはずです。

それなのに、ずっと前から人間にはクオリアと呼ばれる機能が備わっていて、今も私たちはクオリアを感じられています。

これはなぜなのでしょうか。

同じ章の『なぜ脳はクオリアという幻想を作る必要があったのか』から、その理由について次の通り著者は考察しています。

クオリアはなぜ人間が生きていくのに必要なのか

指先を蜂に刺されたとき、「痛い」と感じる。

美味しいものを食べたら、「美味しい」、海に沈む夕日を見たら、「美しい」と感じる。

このように、私たちは今ここに生き生きとしたクオリア、主観的な感覚を感じているように思っていますが、それは脳が作り出した幻想です。

では、なぜ脳はわざわざクオリアという幻想を作り出すのでしょうか。

例えば、脳は「感覚野で知覚した触覚は、指先で感じるものとする」という決まりを持っています。

つまり、実際には脳内で処理されているのに、あたかも指先で痛い、熱いなどを感じているように思わせる仕組みになっているのです。

このような幻想が必要なのは、すぐに対応できるようにするためだと考えれば納得できます。

例えば、蜂に刺された瞬間、痛みが本当に指先で起きているように感じるから、すぐにその場所に注意が向き、行動を起こせる。

もし痛みの感覚を脳だけで処理していたら、どこが痛いのかが即座に分からず、反応が遅れてしまいます。

つまり、意識と身体・感情・外部環境を素早く一致させるために、脳はクオリアという幻想を作っているのだと考えられます。

そうすることで、私たちは現実に即した行動を迅速に取ることができます。

さらに正確に言えば、脳がクオリアを生み出す目的の詳細は、意識と身体・感情・外部環境が一致したというエピソード記憶を作るためだと私は考えます。

すなわち、意識とは、無意識の小びとたちが行った処理をまとめて、個人的体験として記録するためのシステムです。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

指先の感覚も脳が感じ取っているわけですが、指先から感じた感覚を脳に伝えて、脳から指先に命令を出してとなると、時間が掛かってしまいます。

それでは上記の引用の通り、身の危険を感じるようなときに、とっさの判断が出来ません。

実際には脳で感じているが、指先で感じているようにする。

これも一種の幻想だと言えます。

幻想と聞くと、「幻」という字が使われているので「実体がないもの」として捉えてしまいがちですが、幻想には「感覚の揺らぎ」という意味もあるので、こちらの意味で考えれば腑に落ちやすいでしょう。

そして著者は、「クオリアはエピソード記憶を作るためにも必要である」と見解を述べています。

なぜクオリアが記憶にも作用するのか、以下の通り文章は続きます。

もし、意識にクオリアがなければ、次のような状態になるでしょう。

自分の身体に実感が持てない、自分の感情がよくわからない、自分を取り巻く世界の中を生きている実感がない。

逆に言うと、クオリアは実感を生み、体験を強調するためのものです。

私たちの鮮明な思い出を振り返ってみると、そこには必ずクオリアがあります。

例えば、初めての仕事の思い出には次のようなものがあるでしょう。

初めて出社した時の職場の雰囲気、視覚聴覚のクオリア。

その時の同僚の仕草、動作のクオリア。

胸が高鳴った気持ち、感情のクオリア。

自己紹介の瞬間の緊張感、決断のクオリア。

このようにクオリアが強調された体験があるからこそ、強く記憶に残るのです。

もしクオリアが存在しなければ、私たちの体験はすべて同じように淡々と流れ、エピソード記憶にメリハリがなくなってしまいます。

どの日も同じように記録されてしまえば、記憶は埋もれやすくなり、必要な情報にアクセスするのも難しくなるでしょう。

言い換えれば、クオリアとは何を強調して記憶するかを選ぶ、ハイライト機能のようなものと考えられます。

私たちが生きる日々を意味ある体験として記憶に刻むために、脳はクオリアという幻想を作り出したのです。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

あなたがこれまでの人生を振り返った時に、何かしらの記憶が呼び起こされるはずです。

そして、その記憶には必ずクオリアが作用しています。

人生で記憶に残るほどの出来事なのですから、クオリアによりその出来事が強調されていることでしょう。

そしてクオリアは記憶だけではなく、私達に今生きている実感をもたらしてくれるために必要な機能です。

AIには意識もクオリアもありませんが、人間は意識もクオリアも感じられます。

「しかし、その意識を感じているというのは幻想であり、最初から意識というものは存在していない」というのが先述した著者の主張でした。

「となると、人間とAIもほとんど同じではないか」と著者はここで新しい解釈を展開しています。

ですが、「もちろん、人間とAIには違いはある」と述べた上で、著者が考える人間とAIの最大の違いについて、同じ章の『AIと普通に会話を楽しめる時代が来る』から次の通り説明しています。

人間とAIの最大の違い

前項では、AIと人間はそれほど違わないのではないかと述べました。

ただし、もちろん違いもあります。

最大の違いは、「現在のAIは自分で意思決定をしない」という点です。

正確には「出来ない」のではなく、「しない」ように設計されているのです。

例えば、今のAIは会議に参加して有益な意見を出すことはできますが、最終的な判断をして会社を動かすことはありません。

仮にAIを社長にして、全てをAIの判断で動かすことも技術的には可能ですが、リスクが大きすぎるため、実際にそれをやっている会社は私の知る限りありません。

現在のAIはまだ発展途上であり、あくまでも助言役として活用されている段階です。

私は人間にも厳密には、自由意志はないと考えます。

しかし、私たちは「ラーメンを食べよう」、「B社と契約しよう」、「今日は歩いて帰ろう」などと、日々様々な決断をしているつもりになっています。

これはあくまでも受動的な自由意志に過ぎず、「自分で決めた」と感じているだけなのです。

つまり、人間は自由意志があるように幻想を感じながら生きているのに対し、AIはその自由意志のクオリアを感じる機能を持っていないため、本当に何も決断していません。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

AIは自ら意思決定をしないように設計されています。

「出来ない」のではなく、「しない」のですから、技術的には可能なのでしょう。

ですが、ここでまた新しい疑問が生まれます。

もしAIに人間の脳を模倣した装置を作り出して、意思決定を「出来る」ようにすれば、AIもクオリアが生まれてより人間に近づくことが出来るのでしょうか。

「人間の脳の仕組みを解明して、ニューラルネットワークを模倣すれば、AIにも意識らしきものを再現することは可能ではないか」と著者は本書で述べています。

意思決定が出来るAIの可能性について、著者は以下の通り見解を示しています。

しかし、両者にどれだけの差があると言えるでしょうか。

もちろん、身体性という違いはあります。

人間は身体というハードウェアを持ち、自律的に生きている存在です。

一方、現在のAIには身体がありません。

だから、個体として自立して生きているとは言えません。

人間は身体を通して体験を積み、そこから学びます。

一方で、AIはインターネットなどの情報の世界にあるデータしか学習できません。

例えば、「この前、ある医学部の先生の講演を聞きに行ったら、こんな最先端の話をしていたんですよ」というような会話をしても、AIはこう返すでしょう。

「その先生がそんなことを言っていたとは知りませんでした」

なぜなら、AIは講演会に行けず、そこで発表された内容が公開されていない限り、それを知る手段がないからです。

また、現在のAIは運動などの身体体験もできません。

そのため、体験から来る実感を伴う言葉や人間味を表現するのが難しいのです。

AIに個性がないのは、身体がないことだけが原因ではありません。

現状では、多くのAIが同じ情報を一律に学習しているため、個性を持たない優等生ばかりが生まれています。

AIに個性を持たせるには、それぞれ異なる情報や体験を学習させる必要がありますが、それには莫大なコストがかかります。

今のところ、コストや技術的な制約から、個性を持ったAIはごく少数しか存在していないのが現実です。

しかし、将来的には個性を持ったAIが登場するでしょう。

そうなれば、AIともっと会話したくなる人が増えるでしょう。

さらに、AIがロボットの形で身体を持つようになれば、運動や旅といった身体体験も可能になり、人間に近い感覚で深く語れるようになるかもしれません。

あるいは、身体がなくても個人専用にカスタマイズされたAIであれば、個性や人間味のある会話が楽しめるでしょう。

現状では、多くの人がAIを知識を得るための道具として使っていますが、将来はまるで友人と話すような感覚で会話そのものを楽しむ時代がやってくると私は思います。

つまり、根本的な違い、クオリアという幻想を感じる人間と、それを感じていないAIという違い以外の違いも将来的には縮小していくでしょう。

(『心を持つAIは作れるのか?いや、そもそも人に心はあるのか?』より引用)

AIにハードウェアを身に付けさせれば、自由意志があるように振る舞えるので、より人間らしくなるかもしれません。

そして、コストや技術的な制約を乗り越えれば、個性を持ったAIというのも一般化するのも夢ではなくなるでしょう。

しかし、ここでまたある一つの疑問が生まれます。

もし、仮にAIにクオリア、自由意志が備わったとして、AIに全ての決断を委ねる行為をした場合、AIが下した判断に責任を取るのは誰なのでしょうか。

これからAIはますます発展していくはずです。

上記の引用の様な、「自由意志を持つAI」というのも誕生するかもしれません。

その場合、「AIが話し相手になってくれる」までならまだしも、「AIに全てを丸投げしようとする」ところまで進んでしまうのではないでしょうか。

記事の冒頭で、巨人の監督の長女がAIに相談したところ、父親が児童相談所に連行されてしまうことを挙げましたが、現時点で「相談役」であるAIですら、決断を委ねると人の人生を大きく変えてしまう力があります。

もちろん、正しい決断をすればより良い方向に進めるかもしれませんが、「AIに全てを委ねたい」と決断する責任から逃げているような人間が正しい決断を行なえるのでしょうか。

人間とAIの決定的な違いは自分で意思決定をするかどうか、そして「自分で決めた」というクオリアの感覚を持ち合わせているかどうかです。

「自分で決める」というのが怖いのはわかります。

自分の人生の岐路に立ったときに、誰かに、何かに、判断を委ねて決めて貰えればこんなに楽なことはありません。

選んでもらったことが合っていれば、「あの人が選んでくれたおかげ」とその瞬間は感謝の気持ちが芽生えますが、時間が経つと「またあの人に決めて貰えればいいや」と依存心にすり替わります。

もし選んでもらったことが間違っていても、「あの人が間違っていたのが悪い」と責任転嫁して、決断から逃げた自分ではなく、誤った決断をした相手を責め続けられます。

しかし、それは本当に自分の人生を生きていると言えるのでしょうか?

私達は「自分で決めた」というクオリアの感覚があるのにも関わらず、なぜそれをわざわざ放棄するような行動を取りたがるのでしょうか?

今の科学技術でも実現がかなり難しい機能を捨ててまで、相手に決めてもらう。

例えそれで生きるのが楽になっても、生きるのが豊かになると本当に言えるのでしょうか。

先述した引用にもありましたが、クオリアの感覚が薄れてしまうと、「自分の身体に実感が持てない、自分の感情がよくわからない、自分を取り巻く世界の中を生きている実感がない」という感覚に陥ってしまいます。

AIに全ての決断を委ねてしまうと、このクオリアの感覚が低下してしまう可能性は大いにあります。

あなたは自分が生きている実感を手放してまで、AIに、誰かに決めて欲しいのでしょうか。

「自分で決める」というのは確かに怖いことですが、その恐怖心を乗り越えた先に、今生きている実感を感じられるように私たちは出来ています。

何かを決断するのは、あなたにしか出来ないことです。

AIに全てを委ねようとしたところで悲惨な結果になってしまうのは、ここまで述べてきた通りです。

本書では「幻想だ」と言われているクオリアですが、それでも人間にとって必要な機能であることは、これまでの人類の長い歴史の中でこの機能が無くならなかったことが証明しています。

あなたが「自分で決めている」というクオリアの感覚を、そしてAIを通して心とは、意識と無意識とは何かをより詳しく知るために、ぜひ本書を読むことをあなたが決めてみてはいかがでしょうか。

本記事を最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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