生きることに罪悪感を感じるのは、ありのままの自分を受け入れていないからです『人生は苦である、でも死んではいけない』

心理的な抑圧を緩和する
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「何」と「なぜ」から派生される思いの違い

夜眠ろうとした時に、脳裏に様々なことを思い出すことがあります。

大抵はその日起きた出来事ですが、全く違うことを思う場合があります。

何かひとつ例を挙げるなら、自分が生きていることについてでしょうか。

主に夜眠りにつこうとした際に、「なぜ自分は生まれてきてしまったんだろう」という思いが急に芽生え、得体の知れない大きな不安が押し寄せて、恐怖心から眠れなくなった経験はありませんか。

「なぜ自分は生まれたのか」と自分に問いかければ問いかけるほど、自分が今生きていることに対して罪悪感の様な気持ちが膨らみ始め、次第には「自分が生まれてきたことに対して、誰かに対して謝らなければならない」様な気持ちにまで変容することがあります。

なぜ、自分が謝らなければならないのか。

そして、誰に対して謝らなければならないのか。

何もわからないまま、生きていることに対して罪悪感だけが膨らみ続ける。

あなたもそんな夜を過ごされたことはないでしょうか。

「自分って何の為に生きているんだろう」と思うのが虚無感だとすれば、「自分はなぜ生きているんだろう」と思うのが罪悪感です。

「何の為に」が示しているのは目的ですが、「なぜ」が示しているのは原因です。

「なぜ」と思ってしまうと、その原因を特定する為に自分で自分の事を責めてしまうような思考に陥ってしまいます。

この得体の知れない罪悪感は、なぜ生まれてきたのでしょうか。

そして、どうすれば罪悪感を打ち消すことが出来るのでしょうか。

今回ご紹介する『人生は苦である、でも死んではいけない』は、生きることに対する罪悪感に正面から向き合い、その罪悪感を打ち消す対処法を授けてくれる本です。

いつも本サイトを訪れて記事を読んでいただき、ありがとうございます。

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人生とは、砂浜で貝を集めることである

著者の岸見一郎さんは心理学者です。

著者の代表的な書籍を挙げるとしたら、『嫌われる勇気』でしょうか。

とても有名な書籍なので、タイトルくらいはあなたもどこかで聞いたことがあるはずです。

もしかしたら、読んだことがあるかもしれません。

『嫌われる勇気』がきっかけとなり、その後様々な書籍でも取り上げられるようになった、アドラー心理学を著者は専門にしています。

そんな経歴を持つ心理学者の著者が、生まれてきたことに対する罪悪感について、本書の「はじめに」から次の通り見解を示しています。

生れて、すみません。

これは太宰治の二十世紀旗手に付けられた副題である。

だが人は、最初からこのように思うことはないだろう。

親は子供が生まれてきたとき、ただ生きていることを喜びに思ったはずである。

ところがいつの頃からか、親は子供に期待するようになる。

子供に特別であることを求めるようになるのだ。

それは一言で言えば、いい大学に入ったり、いい会社に入ったりして人生で成功することである。

差し当たってその為には、学校でいい成績を取ることが期待される。

多くの場合、これは社会の通念とも一致する。

しかし、何の疑念もなくそれを受け入れ、親をはじめとする他者の期待を満たすことが出来る人ばかりではないはずだ。

それで自分が生まれてきたことに罪悪感まで持つ人が出て来る。

その様な思いが、冒頭の太宰の言葉を言わせるのだ。

(『人生は苦である、でも死んではいけない』より引用)

あなたもこの世に生まれてきたときに、「生きているだけで、存在してくれるだけでありがたい」とあなたのご両親だけでなく、周囲の人達からその様に思われたことは必ずあります。

それが時が経つにつれて、「こうだったら、もっといいのに」という欲望に形が変わり、その欲望に対して叶えられていない現状の自分の姿を見て失望し、「生れて、すみません」と思うようになる。

あなたが太宰治の様に生きていることに罪悪感があるとすれば、それは元を辿れば、「今より良い状態になりたい」という欲望から始まりました。

その欲望が生きていく中で周囲の影響を受け続けて、歪に形を変えられてしまい、生きることに罪悪感を感じるまで歪められるようになったのです。

その歪みを正すためには、生きるということに対して正しい見方で向き合う必要があります。

それでは生きるとはどういうことか、本書の文章は次の様に続きます。

しかし、人はそもそも誰かの期待を満たすために生きているわけではない。

他者の期待を満たすべく、今の私ではない自分になる必要などはないのだ。

私は私でしかない。

あるのは、このあるがままの私だけなのだから。

生まれたばかりの子供が、「生きているだけでありがたい」と親から思われるのと同じで、本来的に何も出来なくても、誰もが生きているというそのことだけで価値がある。

自分を他者の期待や社会の通念に合わせる必要などないのだ。

そして、今を生きることが大切だ。

今は何かを達成するための準備期間ではない。

すなわち、今は何かのリハーサルの時間などでは決してなく、常に本番である。

さらにはどこにも行かなくても、ここで生きることは出来る。

どこにも行かなくてもいい、ただともかく前に進んで行こう。

例えそれが小さな一歩に過ぎなくても。

そう思うと、生きることも辛くなくなる。

だから、今、ここを真剣に生きたい。

確かに現代社会には苦しみが満ちている。

生きていれば、苦もあれば楽もあるというよりも、生きること自体が苦である。

それで生きることそれ自体がそもそも苦しいことなのであれば、生まれてこない方がいい。

そう考える人も出て来る。

(『人生は苦である、でも死んではいけない』より引用)

誰かからの承認がなければ、あなたという存在に価値が生まれるわけではないのです。

あなたが今生きているというだけで、十分価値はあります。

そのことを認識するだけでも、生きることに対する苦しさは少しは和らぐでしょう。

上記の引用の通り、生きること自体が苦しいことであることを著者は否定していません。

むしろその苦しさを受け入れた上で、それでも生きる価値があると肯定しています。

第1章の「人生は苦である」である例え話を用いて、生きることの苦しさについてさらに詳しく説明しています。

三木清は、人生を砂浜で貝を集めることに例えている。

語られざる哲学。

人は皆、広い砂浜で銘々に与えられた小さいカゴを持ちながら、一生懸命貝を拾ってその中へ投げ込む。

その拾い上げ方は人によって違う。

無意識的に拾い上げたり、意識的に拾い上げたり、ある人は習慣的に無気力に、ある人は快活に活発に働く。

ある人は歌いながら、ある人は泣きながら、ある人は戯れるように、またある人は真面目に集めている。

この砂浜の彼方に大きな音を響かせている暗い海がある。

それに気付いている人もいれば、気付いていない人もいる。

カゴの中には次第に貝が満ちてくるが、何かの機会にふと、カゴの中を点検する。

すると、かつて美しいと思っていた貝が、少しも美しいものではないことに気付き、愕然とする。

とその時、海は破壊的な大波で人をひとたまりもなく深い闇の中に連れ去ってしまう。

広い砂浜は社会、小さいカゴは寿命、大きな海は運命、そして強い波は死である。

ここで三木の言う貝とは、多くの人が何の疑いもなく美しい物。

つまり、価値のある物と思い、それを得ようと努める。

例えば、お金や名誉、社会的地位のことである。

しかしそれがある時、少しも美しい物ではなかったことに気付くときがやってくるというのだ。

(『人生は苦である、でも死んではいけない』より引用)

あなたは今まで無意識に貝を拾い上げ続けてきました。

貝を拾う理由は周りの人達がそうしているからです。

あなたは今までどんな風に貝を拾い上げて、そのカゴの中にはどんな貝が集まっているでしょうか。

あなたが美しいと思って拾い上げた貝は、今もその美しさが保たれているでしょうか。

美しくないと思ってしまう時が来てしまうなら、どうして今も貝を拾い続けてしまうのか。

そんな生きることの苦しさと儚さを、本書の第6章の「死んではいけない」で著者はアドラーの言葉を用いて、別の表現を使い次の様に解説しています。

アドラーが比喩した生きることの苦しさ

アドラーは、途方もない重荷を担って人生を歩む人にとって、この世界は嘆きの谷だと言っている。

嘆きの谷とは、旧約聖書の詩篇に出て来る言葉である。

エルサレムへ巡礼に出る人は、完走の為に枯れて荒れ果てた谷底の道を歩んで行かなければならなかったのだ。

しかし、その同じ詩篇で「神のおかげで勇気を出し、心に広い道を見ている人は嘆きの谷を通るときにも、そこを泉とするだろう」とも言われている。

勇気のある人は嘆きの谷さえも泉と見るというのである。

嘆きの谷がないわけではない。

また、荒れ果てた谷底の道が泉になるというわけでもない。

そうではなく、荒涼たる嘆きの谷自体をそのまま泉と見るのである。

つまり、人生はそもそもただ苦なのだ。

苦しいこともあれば、楽しいこともあるというのではない。

苦なのだ。

だが、それでもまた人生は、泉でもあるのだ。

人生は苦しい。

だからといって、どうすることも出来ないと絶望することも、また怒りをぶつけることも、諦めることも必要ではない。

或いは、人間を超えた力に救いを求めることもない。

ありのままに受け入れる。

その上で、その世界に働きかけていかなければならない。

ある出来事や経験から、誰もが同じ影響を受けるのであれば、人は外界からの刺激に単に反応する存在、反応者、リアクターでしかなくなるだろう。

そうではなく、人は行為者、アクターなのだ。

(『人生は苦である、でも死んではいけない』より引用)

嘆きの谷を見ても、嘆きの谷である事実は変わらないように、貝を拾うことも、貝を拾い続けていることには変わりません。

そんな風に、あなたは目の前の事実をありのままに受け入れられているでしょうか。

「受け入れている」と答えるなら、なぜあなたは今悩みを抱えて苦しんでいるのでしょうか。

人生の苦しさを受け入れようとはしているが、その苦しさを完全には受け止めきれていないから、苦しんでいるのだと察します。

あなたの心境が私にわかるのは、私自身も昔は生きることの苦しさを受け止めきれていなかったからです。

それに今も生きることの苦しさを受け止めきれずに、苦しむこともあります。

先述した引用の通り、そこに感情を向ける必要はありません。

よりその苦しさが、痛覚が過敏になってしまうだけです。

だから、ありのままに受け入れる。

その上で自分がどう行動するかが大切なのです。

「人は反応者、リアクターではなく、人は行為者、アクターなのだ」と書かれていますが、自らの意思で自らの行動を決めることが私達には出来ます。

それが人生においてどれほど大きな意味を持つのか、次の通り説明しています。

将来への不安と生きづらさを感じ、自分には生きている意味も価値もないと思う人。

この世界の理不尽や不条理に憤るものの、それに抗することは出来ず、無力感に苛まれる人。

その為、自ら命を経とうとまで思う人もいる。

だが、人間は本来、何かによって決定されるような存在ではない。

これまでどんな人生を送ってきたとしても、また今現在どんな不幸な境遇にあったとしても、そうした過去、あるいは今置かれている状況が自分を決定するわけではない。

どんな苦境にあったとしても、人には自分の意思で何をするかを決めることが出来る。

ここに人間の尊厳がある。

今、酷く空腹を感じていて、だが目の前にはパンが一個しかなかったとしても、そのパンを自分以上に必要としている人がいたとすれば、自分では食べずにその人に譲るという判断が出来るのが人間である。

もちろん、人には譲らないで自分で食べる人もいるだろう。

その様な人は後になって、なぜあの時必要な人に譲らなかったのかと非難されるかもしれないと予想し、後に非難されることになるとしても、今食べる方が自分の為だと判断するのである。

いずれにしても、人は同じ条件下にあっても、必ずしも皆が同じ行動を取るわけではない。

空腹が行動を決定するわけではない。

先にも見たように人間は外界からの刺激、今の場合は空腹、に反応するだけの存在、反応者リアクターではなく、自由意志がある行為者アクターだからだ。

最早どうすることも出来ない。

自分が生きていることには意味がない。

そう思うということは、自分で自分の尊厳を脅かすことである。

だが、誰からも自分の尊厳が脅かされることがあってはならない。

例え、自分自身からであっても。

(『人生は苦である、でも死んではいけない』より引用)

上記の引用の通り、人は同じ状況下に置かれても、取る行動は人それぞれ違います。

それぞれの意思があって、そこから行動を決める自由意志が私達にはあります。

なので、あなたも自分の意思を持って、行動を決めて生きてもいいのです。

むしろ、自分の意思を持たないことは、自分で自分の尊厳を脅かしています。

だから、生きることに罪悪感が生まれて苦しんでいるのではないでしょうか。

著者はドイツの文学者のゲーテの言葉を引用して、生きることに関して以下の通り説いています。

確かに、生きることは苦しい。

ゲーテは、「人間は努力する限り、悩むものだ」と言っている。

真剣に生きているからこそ、悩みも深い。

行き詰り、悩み、絶望し、死までも考えるのである。

考えて欲しい。

人生の意味に飢えるグレートハンガーでない人が、この世にどれだけ多いか。

成功することだけを考え、成功する為には人からどう思われようと、噓をつき不正を侵すことすら厭わない人。

その様な人は悩むことなく、良心の呵責を感じることもなく、のうのうと生きている。

それなのに、なぜあなたが死ななければならないのか。

先に第1章、三木清が人生を砂浜で貝を拾うことを例えているのを見た。

人は皆、広い砂浜で銘々に与えられた小さいかごを持ちながら、一生懸命貝を拾って、その中へ投げ込む。

その拾い上げ方は人によって違う。

無意識的に拾い上げたり、意識的に拾い上げたり、ある人は習慣的に無気力に、ある人は快活に活発に働く。

ある人は歌いながら、ある人は泣きながら、ある人は戯れるように、またある人は真面目に集めている。

ところが何かの機会にかごの中を点検すると、かつて美しいと思っていたものが少しも美しくなかったり、貝だと思っていたものがそうではなかったことに気付く。

しかしその時、この砂浜の彼方に大きな音を響かせている暗い海の大きな波がひとたまりもなく、人を深い闇に攫って行く。

三木は、貝の中から一瞬の時をもってしても、永遠の高貴ある貝を見出して拾い上げることが出来る人がいるというのだが、最終的に人は波に攫われ死ぬのだから、永遠の高貴ある貝を拾い上げても意味はないのではないか。

そもそも、最初から貝を拾うのも辞めるという生き方があってもいいではないか。

人生の意味に飢え、人生の意味をひたすら問うグレートハンガーは、皆が成功を求めて生きていても、そのことに最初から疑問を持っているので、成功ゲームには参加しようとはしないのだから。

(『人生は苦である、でも死んではいけない』より引用)

あなたがこれまで生きてきて、苦しんだり、辛い思いをしているのは、それだけあなたが自分の人生に真剣に向き合ってきた証拠です。

この世界は様々な人達がいて、それぞれの自由意志に基づいて行動しています。

だからあなたも現状をありのままに受け入れて、あなたの自由意志に基づいて行動してみてもいいのです。

そして人は本来、生きたいと願うものです。

それなのに、苦境の中にあって生きる勇気を失うまでに苦しんでいる人が、どうすればその失われた勇気を回復出来るかを考えてみるのが、本書の第6章の「死んではいけない」のテーマです。

あなたの心の中に生きる勇気を回復する方法に関して、アドラーの言葉を引用して次の通り説明しています。

生きる勇気を持つためには

アドラーが次の様に言っている。

「自分に価値があると思える時にだけ、勇気を持てる」、アドラー・スピークス。

予め言っておくならば、先に第4章アドラーがこの価値があるということを生産性に置いていることの問題を見た。

この点については、価値があるというのがどういう意味なのかを明らかにした上で、後に考えたい。

自分など大した人間ではないとか、自分は誰にも必要とされていないし、自分のことを好きだと言ってくれる人などいない。

そんな風に自分を否定的に見る人は、自分に価値があるとは思っていない。

なぜ自分に価値があると思えないのか。

どうすれば、自分に価値があると思えるようになるのか。

そのことを絶望したあなたにこそ、ぜひ考えて欲しい。

(『人生は苦である、でも死んではいけない』より引用)

あなたは自分に価値があると心の底から思えるでしょうか。

「ある」と即答して断言出来ていないのが、「ない」理由になっています。

では、「自分に価値がある」とどうすればそう思えるようになるのでしょうか。

その疑問に対して、著者はこう答えています。

自分の事を好きかと普段は尋ねられることはないだろうが、カウンセリングでは相談に来た人にそう尋ねることがある。

多くの人は、自分が好きではないと言う。

それどころか、大嫌いだという人もいる。

自分の事を大好きだと言える人であれば、そもそもカウンセリングを受けようとは思わないだろう。

「自分が好きである」という言い方に抵抗があるのであれば、「自分を受け入れる」でもいい。

自分に価値があると思えるというのは、ありのままの自分、生きている自分に価値があると思え、ありのままの自分を受け入れることが出来るということである。

アドラーは先に見たように、自分の行動が共同体に有益である時にだけ、自分に価値があると思えると言っている。

だが、これが間違いであることは後ではっきりと指摘したい。

自分の事が好きではないという人は、ありのままの自分が好きではないのである。

しかし、どれほど自分に癖があっても、死ぬまでこの自分とは付き合っていかなければならない。

それなのに、このありのままの自分が好きになれないとすれば、人は幸福にはなれないだろう。

ありのままの自分を好きになるのであれば、自分を変える必要もない。

自分が好きでないので、自分を変えたい。

この自分とは違う人になりたいと言うが、そんなことはしなくてもいいし、そもそもそんなことは出来ないのだ。

先にも見たように、他の道具であれば気に入らないからとか、もっといいものがあるからと買い替えることが出来る。

しかし、自分という道具は買い替えることは出来ない。

どれほど癖があったとしても、死ぬまで付き合っていかなければならない。

だから、この私のままで自分を受け入れることが必要である。

(『人生は苦である、でも死んではいけない』より引用)

先述した内容で、「ありのままを受け入れる」ことの大切さを見てきました。

今、生きている苦しさに対して湧き上がる感情を抜きにして、ありのままの現状を受け入れる。

それは自分自身に対しても同じです。

「ここが嫌だから受け入れられない」と感情で、自分自身のことを突き放してはいないでしょうか。

上記の引用の通り、自分という道具は買い替えることが出来ません。

気に食わないからといって、簡単に取り替えられないのです。

それなら、いっそのこと今の自分を受け入れてみてはいかがでしょうか。

死ぬまで付き合っていかなければならない上に、自分という存在は毎秒常にそばにいます。

そんな自分を嫌いだと否定することは、毎秒自分自身のことを突き放していることになります。

それでは、「自分の事が好きだ」とか「受け入れられる」とは思わないでしょう。

少しずつでもいいので、これからは自分で自分のことを受け入れてみてください。

この「自分を受け入れる」ことを、「誰かに自分の事を受け入れて欲しい」と人は相手に求めてしまいがちですが、それではより自分自身のことを受け入れられなくなってしまいます。

なぜ自分で自分のことを受け入れるのが大事なのかを、次の通り見解を述べています。

自分に価値があることを知る為には、他者からの承認など必要ではないということ。

他者や世間の承認とは関係なく、自分に価値があると思えたとすれば、それがありのままの自分を受け入れたということ。

この二つである。

自分を暗いと思い、そんな自分を好きになれないという人は、明るいことが良いことだという世間一般の価値観を基準にして、現実の自分を判定しているので、自分を受け入れることが出来ないのだ。

自分が暗いと思っている人は、暗いのではなく、優しいのだ。

というのも、その様な人は自分の言動が他の人にどう受け止められるかを常に考えられる人だから。

その様な人は、少なくとも故意に誰かを傷つけたことはない。

とすれば、それは暗いのではなく、優しいのである。

鏡がなければ、自分の顔を見ることは出来ない。

だから、この言葉という鏡によって、自分の事を違った角度から見ることが出来るようになれば、ありのままの自分を受け入れることが出来るようになるだろう。

(『人生は苦である、でも死んではいけない』より引用)

あなたは本当は優しいのです。

生きていることに罪悪感を感じている自分は暗いのではないかと思い、そんな自分がますます受け入れられないと思われたかもしれません。

ですが、それはあなたの見方が一方的だったからです。

言葉という鏡を使って、違った角度から見たことであなたの優しさが映し出されました。

あなたの優しさをあなた自身が感じられれば、それがありのままの自分を受け入れられたということです。

ありのままの自分を受け入れるとは、この様に言葉という鏡を使って自分を違った角度から見ることです。

これであなたはありのままの自分を受け入れる、最初の第一歩を踏み出せることが出来ました。

ここから二歩目、三歩目と前に進んで、ありのままの自分を受け入れる鏡を見つけるために、あなたの自由意志に基づいた行動から、本書をぜひ読んでみてはいかがでしょうか。

本記事を最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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