理解を求める思いの強さ
ドラマや映画で物語終盤になると主人公が悪役と対峙する際にたいてい会話を行うシーンが見られます。
そこで初めてお互いの気持ちをぶつけ合い、和解するのか亀裂が走ったまま悪役が退場してしまうのか、その後の展開は異なりますが会話の中で共通して頻繁に出る言葉があります。
「どうして理解してくれないんだ!」であったり、「この分からず屋!」とか相手に自分の思いを受け入れてもらおうとしている様な言葉です。
演出上において、今まで対立し続けた主人公と悪役を実際に対面させた際にお互いの本当の気持ちや考えを吐き出すことで、主人公と悪役の存在感を引き立たせているのでしょう。
これまでの話の展開で彼らは互いに異なると認識しているのに、まだ心のどこかで「相手に理解して欲しい」という感性を持っているのは共通しているのだなというところにどこか人間臭さを感じます。
日常生活でも自分の方が正しいはずなのに、相手が理解してくれないと思ってしまうシチュエーションはよくあります。
そんな時に「相手に自分のことを理解して受け入れてもらいたい」という思いが強すぎるために相手との齟齬が生まれてギクシャクしてしまう経験をした方も多いと思います。
そんな思いに警鐘を鳴らすのが、今回ご紹介する「友だち幻想」という本です。
他人との適切な距離を弊害する言葉
この本の帯にはこんな言葉が書かれています。
「みんな仲良く」という重圧に苦しんでいる人へ (『友だち幻想』の本の帯の文章から引用)
「みんな仲良く」という言葉は幼少期に必ず聞いたことがあるかと思います。
小学校低学年くらいまでの子供がケンカした際に、担当の先生や親が必ずといっていいほど使用するフレーズがこの「みんな仲良く」ではないでしょうか。
ただこのフレーズは学年が上がるごとに使用されなくなっていきます。
幼少期はまだ自分と他者との区別が付いていないので、「自分は自分」であるし、「相手は相手」であるという自分と他者との境界線の確立がまだ定まっていません。
それに加えてまだ物事に対する考え方が固まっていないので、「みんな仲良く」という言葉を素直に受け入れることが出来るのでしょう。
ですが、年を重ねるにつれて自我が目覚め始め、「私とはこういう人間だ」と意識すると価値観が形成されそこで自分と他者との境界線がはっきり区別されます。
そして自分と同じような価値観で構成されたグループに所属することが楽なのですが、同じ環境下において異なる価値観で形成されるグループが生まれてしまうことが圧倒的に多く、異なるグループ間で交流を行わなければならない際に、価値観の相違から険悪な雰囲気になることはよくあります。
その際に幼少期から聞かせれてきた「みんな仲良く」という重圧はここで重くのしかかります。
この言葉の根底には「相手に自分のことを理解して受け入れてもらいたい」とか、「人と人は分かち合えるはずだ」という思いが混ざっています。
「みんな仲良く」という考えは幻想であり、「相手に自分のことを理解して受け入れてもらわなくていい」や「人と人は分かち合えない」と思い直すことで自分と他者に適切な距離が生まれて、お互いに過ごしやすくなるのではないか。
それではその適切な距離感とはどの様な状態を指すのか、友だちとして向き合うとはどう意識すればいいのかをこの本を読んで改めて見つめ直してはいかがでしょうか。
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