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自分の意見がないのは、自分の言いたいことを我慢し続けてきたからです『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』

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目次

自分の言いたいことを我慢するだけが、コミュニケーションではない

相手に自分の意見を伝えたいけど、自分の意見や思いをつい飲み込んでしまう。

それに誰かに聞いてもらったりして吐き出せる場所もなくて、一人で抱え込んだままになってしまう。

その様な経験をされたことはないでしょうか。

自分の言いたいことを相手に伝えるのは無理に我慢しなくてもいいんです。

大事なのは伝え方です。

ただ単に自分の思いを相手をぶつければいいわけではないのは、あなたもわかっていることでしょう。

では、どうすればいいのでしょうか。

その答えは自分の言いたいことを大切にして表現すると同時に、相手が伝えたいことも大切にして理解しようとすればいいんです。

そしてそのことを意識した伝え方があります。

それがアサーションです。

今回ご紹介する『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』は、自分も相手も大切にする伝え方であるアサーションとは何かをわかりやすく伝授してくれる本です。

いつも本サイトを訪れて記事を読んでいただき、ありがとうございます。

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アサーションとは何か

著者の平木典子さんはカウンセラーです。

カウンセラーである著者はカウンセリングでアサーションを行なっており、そのアサーションについてとアサーションを活用した事例を紹介しているのが本書です。

まず、アサーションとは何かについて、本書の『はじめに』から次の通り説明しています。

相手の反応を気にして、言いたいことが言えない。

「言い過ぎてしまったのではないか」と後から反省することがある。

自分の思いを伝えるというのは難しいものです。

一生懸命に表現しても、表現しきれないこともあります。

相手がまるで違った形で受け止めてしまう場合もあります。

思いが伝わるどころか、「わかってもらえない」、「気持ちが通じない」といった葛藤を覚えることの方が多いかもしれません。

その悩みに示唆を与えてくれるのが、アサーションです。

アサーションとは、自分の言いたいことを大切にして表現すると同時に、相手が伝えたいことも大切にして理解しようとするコミュニケーションです。

どちらの主張が正しいかではなく、対話を通して何が分かり合えるかを受け止め合っていく。

これがアサーションの基本姿勢です。

(『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』より引用)

「主張の正しさ」よりも、「対話を通して何がわかり合えるかを受け止め合っていくこと」がアサーションでは大事なことです。

人はつい相手に自分の気持ちをわかって欲しいがために、自分の意見を頑なに曲げなかったり、主張してしまいがちです。

しかし、それでは話が平行線を辿るだけになってしまうのは、あなたも経験されたことがあるはずです。

話が平行線を辿るのは、互いにお互いの主張をぶつけ合うからです。

自分の主張の正しさばかりに気を取られて、相手の言い分を聞こうという考えがありません。

ですが、アサーションは自分の意見も相手の意見も大切にします。

ここがアサーションの一番大きな特徴です。

では、アサーションを行うことで実際にどの様な効果が得られるのか、文章は以下の通り続きます。

アメリカでアサーションを学んでから40年以上に渡り、日本でのアサーショントレーニングに注力してきました。

言葉というものは、同じ言葉でも社会的、文化的バックグラウンドが違えば、異なる意味を持つこともあります。

「理解してもらえる」と思っていた発言に、否定的な反応を返されるということもあるかもしれません。

そのような時、いちいち反発したり葛藤したりせず、「相手は自分に何を伝えようとしているのだろう」と受け止める。

言葉のやりとりを重ねることで、双方の共通の意味を探っていく。

アサーションではそんな心構えが必要です。

会話で交わされる言葉は意味の候補です。

その候補を突き合せながら、相手が本当に言いたいことは何かを考えていくことがアサーションではとても大事です。

表面的にわかった気にならず、「あなたの言いたいことはこういうことだろうか」と確認しつつ伝え合っていけば、きっとそこに発見があります。

無意識だったことが意識化され、互いに確かめ合う中で意味が膨らみ、思いもしなかった着地点に到達することもあります。

アサーションとは自分と相手、双方の意見を尊重するだけでなく、伝え合い、確かめ合う過程そのものを含めて大切にしていくことと言えるでしょう。

仕事では、タスクに応じて簡潔で分かりやすい言葉を使うことはもちろん必要です。

しかし、簡潔でわかりやすく伝えられる物事など、世の中の一部に過ぎません。

データや理屈で合理的に処理できること以上に、言葉を尽くして伝え合わなければ伝わらない思いの方がずっとたくさんあります。

アサーションは自己表現を見直すことでコミュニケーションを円滑にします。

さらに対話を通して成長を促し、ありのままの自分を見出すための手助けにもなります。

ありのままとは、決まりきったものではなく変化していくもの。

アサーションを伴った対話によって、思いを膨らませていく中で成長していくものと考えています。

アサーションが皆さんのありのままを見つけるのに役立つことを期待しています。

(『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』より引用)

アサーションは自分と相手、双方の意見を尊重するだけでなく、伝え合い、確かめ合う過程そのものを含めて大切にしていくことに意味があります。

これはお互いに会話のキャッチボールが正常に行えている状態とも言えるでしょう。

お互いにグローブをはめて、お互いに心地良いと感じる速度でボールを投げ合うことが出来ています。

どちらかが一方的にボールを投げるのではなく、互いにとって受け取りやすいボールを意識してキャッチボールが行えています。

しかし、自分の意見を相手に伝えることが苦手だと感じる人は、キャッチボールがそもそも出来ません。

苦手だと感じる人は、ボールを投げようとしても、ボールの投げ方がわからなければ、そもそもボールが見当たらない。

そして相手からボールを投げられても、受け止め方がわからなければ、そもそもグローブをはめていない。

これではキャッチボールを始めることすら出来ません。

なので、まずはボールを見つけてみるところから始めましょう。

あなたが「相手に伝えたいこと」というボールは、どこを探せば見つかるのでしょうか。

そのボールは、実はもうあなたの中にあります。

記事の冒頭で自分が相手に伝えたいことを我慢してしまうことについて触れました。

伝えたいことを我慢し続けていると、「自分が相手に伝えたいこと」というボールを無意識に隠してしまうようになります。

なので、まずは隠してしまいがちになっている自分のボールを見つけてみることから始めてみましょう。

本書の『1章 言いたいことをがまんしていませんか?』の『「やろうと思えばできる」は危険信号』から、自分が我慢していることを見つめ直す方法について次の通り説明しています。

自分が無意識に我慢していることを気付くには

我慢を感じるとは、言い換えれば嫌な気持ちを感じているということです。

残業がなければ早く帰れたのに、この仕事のせいで自分が割を食った。

このような我慢がもたらす嫌な気持ち、不快感は出来れば感じたくないものですが、この不快感は実はとても重要です。

「そろそろ限界だ」、「これ以上出来ない」ということを自分自身に知らせるサインだからです。

不快感のサインがあれば、人はおのずと我慢を避ける方向に行動します。

断るなり、誰かに頼むなり、相談するなりして、なんとか自分を守ろうとします。

中には、我慢した揚げ句に無断欠勤したり、突然会社を辞めたりするなどの行動を取る人もいます。

社会的に見れば非常識な行為ですが、当人自身を守るための行動と考えれば、あながち不可解とも言えません。

我慢のサインを受け止めて、自分が壊れる前に手を打ったのですから、ある意味真っ当な判断と言ってもいいかもしれません。

もちろん、これを繰り返すようでは真っ当とは言えないのですが。

ところがこれに対し、能力が高く、やればできる人は嫌な気持ち、イコール我慢の不快感をほとんど感じていません。

多少は感じているかもしれませんが揉め事を起こすこともない、やればできるという考えの方が勝っているので、それが我慢の第一歩とは気づいていません。

そこから始まって、「これもできる」、「まだ大丈夫」といつの間にか自分を追い込んでいき、遅くまで仕事をして食事の時間も不規則、自宅には寝るために帰るだけ、そして睡眠不足と疲労の蓄積といった悪循環に陥っていきます。

意志の力だけで体力や感情の疲労を抑えることはできません。

自分を守るどころか、どんどん追い込んでいく可能性が高いことを意味します。

「やろうと思えばできる」という考え方自体、考えと意志のみで自分に「やろう」という決心を促し、体調や気持ちを無視しているからです。

(『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』より引用)

あなたも「やろうと思えばできる」という考え方で、自分の体調や気持ちを無視してはいないでしょうか。

自分の中にある我慢のサインに気付いたら、それ以上我慢をし続けない為に早めに手を打つべきです。

限界が訪れてから後悔しても遅いのです。

なので、自分の中にある無意識の我慢を自覚してみましょう。

また、無意識に我慢を重ねてしまうこととして、同じ章の『「自分を責める」もがまんのサイン』から以下の通り他にも事例を挙げています。

我慢のサインに気づかないまま、「やればできる」でやり続けても、人間である以上いずれは限界が訪れます。

どういうわけか、頼まれた仕事が予定通りに終わらない。

不眠が続いて、仕事の能率が上がらない。

やる気が失せて、朝起きられない。

などの危険信号が出て、やがてこれまで通りに仕事が運ばなくなります。

自分の体調や気持ちに気付いていれば、この時点で「もう十分やった、やり尽くしたのだから休もう」と考えても良さそうなところです。

ところが、限界を超えてやってしまう人の多くは、そうは考えません。

頼まれたことが出来ていない、不眠で頭が回らない、そんな自分を「無責任だ、これが出来なくて申し訳ない、役に立たない自分はダメだ」と責めます。

ろくに睡眠も取れず、疲れ果ててくたくたなのに、自分を責める気持ちで頭がいっぱいになっているとしたら、それは気付かない我慢を重ねているSOSです。

「頑張れ、ここで頑張りさえすればすべてうまくいく」

自分を鼓舞するこうした言葉にも自分を責め、自分を追い詰める我慢が潜んでいる可能性があります。

(『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』より引用)

人生の中で頑張らなければいけない局面は必ずあって、そこで頑張ることは確かに大事なことです。

しかし、それがいつものことになってしまうと、上記の引用で挙げられているような危険信号が次第に出て来るようになります。

それは体からの「休め」というサインなのですが、そういったサインに気付かない、あるいは気付いても無視してしまう人が多いのが現実です。

なぜ、人は無意識に蓄積され続けていく我慢に気付けないのでしょうか。

その理由について、同じ章の『頼りにされる人ほど、無意識のがまんに気づかない』から次の通り著者は見解を述べています。

無意識の我慢を積み重ねると生まれてしまう反動

我慢に気付けないのには能力が高いことの他に、もう一つ理由が加わることがあります。

それは自分が我慢することで、いつの間にか人から頼りにされる人になっていることです。

他人から頼りにされ続けると「それでいい」と思い、自信もつくのでそれを続けようとします。

その結果、ますますNOを言えない状態になり、我慢し続けることになります。

こうした無意識の我慢状態は、やがてそれが当たり前のようになって感覚を麻痺させ、活気が失われたり、疲れすら感じられなくなったりします。

感情が鈍感になるので、「こんなのもう嫌だ、やってられない」といった気持ちも失われていきます。

こうして引き起こされるのが感情障害、いわゆるうつと呼ばれる症状です。

感情障害、うつとは、脳の知的機能が勝って、情緒的機能が抑えられてしまった状態を言います。知的機能、つまり左脳を使った活動に没頭するあまり、自分が今どんな気持ちか、楽しいのか、苦しいのかを把握する右脳の機能が停止している状態とも言えるでしょう。

(『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』より引用)

周りから頼られると、我慢していても断れなくなり、そしてそんな周りに頼られている自分に酔いしれてしまうようになります。

それも無意識の内に我慢をし続けてしまう大きな要因になっています。

しかし、それが当たり前になってしまうと、今度は自分の本当の気持ちがどんどん無くなっていきます。

あなたは今、自分がどんな気持ちなのか本当にわかっているでしょうか?

言葉に詰まったり、「たぶん」という言葉が出て来てしまうようなら、あなたの右脳の機能が止まりかけているかもしれません。

自分の感情を司る右脳も、とても大事な機能です。

もし右脳が停止してしまった状態で我慢を続けてしまうとどうなってしまうのか、同じ章の『・がまんの果てに突然キレる』からその末路について以下の通り述べています。

無意識の我慢をし続けると、感情障害、うつ状態になるだけでなく、ある時突然キレることもあります。

我慢し続けたことによる不快感や欲求不満が鬱積して怒りがたまり、我慢をさせられたと思う相手や周囲の人を恨み、それを爆発させたり、八つ当たりをしたりします。

自分を抑えて我慢してきた。

それなのに、相手はそれをわかってくれない。

どうしてわかってくれないんだ。

自分が選択した我慢だったのですが、我慢したゆえに理解されなかったことで自己犠牲を負わされたような気持ちになり、我慢を理解してくれない相手に怒りを覚える。

その結果、突如他人への激しい攻撃が始まることもあるのです。

このように、我慢は大人しく優しいと思われていた人の溜まった怒りを爆発させてしまうこともあります。

「あの人が?」と思われるような事件がありますが、そのような形で我慢が表現される場合もあるわけです。

時には、無関係の部下、家族や連れ合い、あるいは全く面識のない赤の他人に八つ当たりという形で怒りをぶちまけることもあります。

例えば、 2008年に起きた秋葉原無差別殺傷事件の青年は、長年溜め込まれた我慢が一気に爆発した最悪のケースの一つではないかと思われます。

事件を取材した記録によれば、加害者は職場で不安がある度、無断欠勤しては退職することを繰り返していたそうです。

言葉で対話しようとせず、行動のみで意思表示する。

その繰り返しの中で、加害者は自分でも気づかないうちに、どうしようもないほどの我慢を抱え込んでいったのではないか。

無差別殺人など到底許されるものではありませんが、我慢の果てにこうした悲劇があちこちで起こっていることもあるでしょう。

我慢していることに気付かなくなると、うつになったり暴力的になったりする恐れがあり、いずれも自分の行動をコントロール出来なくなる状態に追い込まれています。

制御不能に陥る前に我慢に気付き、自分の本当の思いに意識を向ける。

そのための心強い味方に、アサーションがあることを覚えておきましょう。

(『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』より引用)

無意識の我慢をし続けてしまうと右脳の機能が弱まり、自分の行動をコントロール出来なくなります。

上記の引用で挙げられている自分の行動をコントロール出来なくなった事例は、正に「衝動的に行ってしまった」ことなのでしょうが、この「衝動的」が抑えられなくなるということです。

普通の人なら理性で落ち着かせられるところを、ブレーキの利かない状態でひたすらアクセルを踏み続けている状態だと言えるでしょう。

「衝動的」な思考はどんどん加速してしまい、最終的には悲惨な結果を招いてしまいます。

それを防ぐには、自分の本当の思いに意識を向ける必要があるのですが、いきなり自分の本当の思いが何かを見つけようとするのは難しいことです。

なぜなら、今までずっと無意識の我慢し続けてきたので、思いを探そうとしても無意識に隠してしまうからです。

なので、まずは無意識の我慢が自分の中に生まれてしまったルーツを辿ってみるところから始めてみましょう。

本書の『2章 なぜ、言いたいことが言えないのか』から『がまんしながら「社会の知恵」に従っている』で、無意識に我慢することが人生のどこで培われてきてしまったのかについて、次の通り著者は考察しています。

無意識に我慢してしまうことをどこで人は覚えてしまうのか

現代は個人の時代と言われます。

誰もがネットを通じて、様々な情報にアクセス出来る。

ブログやSNSで情報発信出来る。

気に入った人間と付き合い、行きたい場所に行き、職業も好きに選べる。

私たちは一見、何にも縛られず、人生を自由に生きることが出来そうです。

ところが、実際の私たちは社会という枠組みの中で生きているので、それほど自由ではありません。

社会とは、はるか昔から脈々と受け継がれてきた文化、慣習の積み重ねです。

人々が生き延びるために知恵を出し合い、試行錯誤し続けてきた営みの中に、私たちは生まれ落ち、成長していきます。

家庭や学校など、社会という枠組みの中で身に着けていく知恵は生きる上で必要であり、大きな助けにもなっています。

ただ、残念ながら、その知恵は必ずしも全ての人やどの時代にも合うとは限りません。

与えられた知恵に違和感を覚えることもあれば、拒否反応を起こすこともあります。

小さな子供が泣いたり暴れたりするのは、感覚が合わない社会の知恵に対する精一杯の意思表明と言えます。

子供たちが親に叱られたり、「そんなことでは生きていけないよ」と諭されたりしながら、合うものは引き受け、合わないものは引き受けやすい形に変えるなど、自分に合ったやり方で社会になじむことを覚えていきます。

ところが、中には引き受けにくいものを、そのまま引き受けて生きようとする人が出てきます。

周囲に受け入れられるように振る舞い、「我慢してでも周囲に合わせなければ」とそんな知恵に自分を縛り付け、自分の思いを押し殺してしまう人です。

科学が進歩し便利になった社会で一見、人は自由に生きているように見えますが、未熟な形で生まれる人間は成長過程で社会の知恵を習い、それに従って生きてみるしかありません。

その中に思いを抑え込むという行為も含まれています。

当たり前だと思って学んできた知恵が、実は思いを潰す我慢になっていないか、問い直してみましょう。

(『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』より引用)

無意識の我慢はこの社会で生きていくために身に付けられた処世術だと言えます。

「何もかも自分のやりたいようにやる」では周りと衝突したり、角が立ってしまいます。

幼い頃はその考え方でもいいのかもしれませんが、大人になるにつれて通用しなくなります。

そこで周りに適合する為に生まれたのが「我慢すること」なのですが、「我慢すること」を続けてしまうと今度は自分の思いを押し殺してしまうことになります。

「自分のやりたいようにやる」と「我慢すること」、どちらもちょうどいい塩梅で扱えるようになれば理想的なのですが、「我慢すること」の比重が多くなってしまっている人の方が多いのが今の世の中の現状でしょう。

なぜ、「我慢すること」を過度に選んでしまう人が多くなってしまうのか、同じ章の『自分に合わない「常識」に縛られている』から著者は以下の通り見解を述べています。

子供はどんな環境、社会であろうと、生まれた場所でなんとか自分の居場所を確保して生きるしかありません。

どれほどひどい場所だとしても、路頭に迷って死なないよう必死で頑張ります。

傍から見れば「逃げた方がいい」と思われるような場合でも、そこしか居場所がなければ思いを抑えて我慢するしかありません。

そのような習慣が身に付くと、それが普通のようになります。

子供は身近な家庭や社会の決まり事しか知らないので、その習慣を当たり前のこととして受け取っていきます。

その環境の常識がルールとなり、常識に外れると、社会や家庭から除外、追放されると受け止めがちです。

ですが、それほど常識は絶対のものなのでしょうか。

よく考えてみると、常識はその社会の中での決め事ですが、それはその社会から外に出れば変わることもあります。

許されなかった常識が、許されていることもあります。

常識とは、その社会を作ってきた人々の経験から、年月をかけて良しとされた行動や考え方です。

それが誰にでも、いつの時代にも適応できるとはいえず、生きている時代や場所によって、自分に合わない常識に出会います。

社会の常識は大きな影響力を持つため、常識に逆らう人はどうかしていると思われがちです。

その反面、多様性を持つ個々人にとっては、自分に合わない常識によって自分らしさが潰されることもありえます。

例えば、混雑する満員電車で毎朝通勤しなければならないこと。

上司や同僚に付き合って残業しなければならないこと。

これらは少し前には会社員の常識だったかもしれませんが、今や当たり前ではありません。

やらなくてはならないことがあるときは我慢は当たり前、思いを抑えるのが常識。

その思い込みは、自分らしさを殺していく可能性があります。

我慢がとても辛い。

そう感じたら、自分が間違っているのでもダメなのでもなく、常識の方が自分に、時には他の人にも時代にも合っていないことがありそうです。

(『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』より引用)

育ってきた環境の常識が、人の思考に多大なる影響を与えます。

そのコミュニティでは当たり前だったことが、違うコミュニティに移ると当たり前ではなくなる。

よくあることなのですが、特定のコミュニティに長く居続けるほど、そのことに気付かなくなります。

それは環境に順応しようとするからでしょう。

「何とかこの環境で生き延びなければならない」という思いから順応は行われますが、順応し続けている間は無意識の我慢をし続けることになります。

そうやって私達は無意識の我慢をし続けることを培ってきました。

そして、無意識の我慢から生まれる「我慢してでも周囲に合わせなければ」という思いもまた根深いものです。

同じ章の『「受け入れてもらうこと」にとらわれている』から、周囲に合わせようとする人間の思いの深さについて次の通り説明しています。

「誰かに受け入れて欲しい」と思えば思うほど、自分の本心が離れていく理由

本音を隠して思いを押さえつけて、人から受け入れられるように振舞っていれば、人との関係が悪くなることはないでしょう。

どこでも、誰といても気に入られるような八方美人になれば、その時その場の人とはうまくいくでしょう。

ただ、そういう関係の持ち方は、長続きする深い関係には発展しないでしょう。

何でも話せる親密な関係は、時に葛藤や対立を経験しながら、それを解決し、違いを理解して互いに受け入れる関係であり、相手に依存しない関係です。

ひとりぼっちになりたくない、人から受け入れてもらいたい。

そのために相手に合わせ我慢を重ねると、皮肉なことに相手任せの関係になるので、不安や寂しさは積もります。

「一人いるのは格好悪い、職場で一緒にお弁当を食べる人がいないのは惨めだ」と思い込んでいる人がいると聞きます。

自ら近づいたり、誘ったりすることをしないで待っている者同士は、受け入れる前に知り合うことも出来ません。

受け入れてもらうことにとらわれすぎると、結局関係づくりに受け身になり、相手が面倒を見ようと思わない限り、近づくことさえ出来ないでしょう。

(『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』より引用)

「受け入れてもらいたい」という思いから行動しても、結局その思いが満たされることはありません。

それよりも「受け入れてもらいたい」という思いがより一層強くなるだけです。

そもそも、相手に迎合することが受け入れてもらうことなのでしょうか。

そうやって相手の顔色ばかり窺っているから、自分の本当の気持ちをおざなりにしてしまうのではないでしょうか。

それが無意識の我慢が続いてしまう最大の要因だと、私は考えています。

では、どうすれば「受け入れてもらいたい」という思いを払拭して、自分らしさに焦点を当てた生き方に変えられるのでしょうか。

同じ章の『親への批判を通して、「思い」の伝え方を学ぶ』から、自分の気持ちを見つける方法として以下の通り著者は提案しています。

私は来談者の悩みや問題を聞くとき、「悩みを解決してあげよう」とするのではなく、「相手が元気になるにはどうすればいいか」を第一に考えます。

本人が元気を取り戻せば、悩みにどう取り組むかは自分自身が決められるようになるからです。

「元気になる」ということは、大きな声ではしゃいだり、活発に動き回ったりすることではありません。

周囲の様々な出来事に対して、自らの思いを大切にし、自分らしく対応出来るということです。

自分らしい対応とは、嫌だと感じたらその自分を受け止め、自らの思いに従ってそのことにどう対応するかを考え、動くことです。

幼い頃から親と自由におしゃべりすることが出来た人には、この傾向が身についています。

親と自由に会話が出来るから、親を批判したり、疑問をぶつけたりします。

いわば、親への反発や批判を通して常識を問い、思いを伝えることを身につけていきます。

もちろん、その過程では葛藤が生まれることもあります。

「親なんて何もわかってない」と親とケンカしたり、親から離れたりすることもあるでしょう。

こうした葛藤や対立には、「自分らしく思いを大切にして生きよう」という試みが含まれています。

自分らしさは親への反発や批判を皮切りにして、我慢と折り合いをつけたり、常識とうまく付き合ったりすることを助けます。

親とは違う自分、社会の常識に馴染まない自分はおかしいのではなく、自分の思いの中核が現れてきたことを示しているかもしれません。

人それぞれ顔が異なるのと同じように、それぞれ異なる自分らしさの中核を発揮して生きていこうとすることが、互いに意味のある葛藤ではないでしょうか。

(『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』より引用)

あなたが「嫌だ」と思うことは何でしょうか。

そこにあなたの自分らしさの中核があります。

今まで「受け入れてもらいたい」と思っていたところを、正直に「嫌だ」と思ってみる。

これだけでも自分の思いを大切にする一歩を踏み出せています。

「嫌だ」と思ったら、その対策を自分なりに考えてみて、自分なりに考えた対策を試してみる。

その過程を繰り返していくことで無意識の我慢から解放されて、自分の思いの中核を発揮して生きていけるようになります。

そして自分の思いに気付くには、人との関係が必要不可欠です。

アサーションにおいても人との関わりは重要であり、その重要性について本書の『3章 アサーションで「思い」に気づき、自然体に生きる』から『コミュニケーションを通して人間関係をつくる』で次の通り説明しています。

自分も相手も大切にする自己表現とは

上司からパワハラを受ける、友人に振り回される、パートナーから暴言を吐かれる。

多くの人は人間関係を作る試みの中で我慢すること、思いを抑え込むことを強いられます。

言いたいことを我慢し、思いを封じる努力は、いわば人間関係への配慮と言っても過言ではないでしょう。

人は未熟な状態で生まれる生き物であり、人間関係の中で育てられ、助け合いながら生きていきます。

「そんなことは当たり前だ」と思われるでしょうが、案外多くの人がこの基本を忘れているようです。

常識に縛られず、目の前にいる人を大切にして、しかも我慢しないでいかに人間関係を作っていくか。

効率と競争が重視される時代、物事を早くたくさん進めることが要求される中で、人間関係は二の次にされ、それ故にますます仕事上のつまづきや息苦しさが増えています。

上下関係の息苦しさの中、そのことにいち早く築いてきた社会学、哲学、そしてカウンセリングの世界では、人間関係に対して改めて問いかけを始めました。

人間関係をどうするかではなく、そもそも人は人間関係の中に生まれるという基本に戻って、「関係性を作って生きるとはどういうことか?」という問いを投げかけたのです。

人間の生き方を関係性の視点で考え直すと、コミュニケーションが大切になります。

つまり人間は、コミュニケーションなしには生きていけないこと。

そしてコミュニケーションを通して関係を作るために何はさておき、互いに思いを伝え合うことが必要です。

ただ、思いを抑えがちな人にとって、自分の意見を言ったり、反論を表現したりすることは慣れないことです。

その結果起こる葛藤や相手からの反撃は恐ろしく、一層慣れないことに対応しなければならない困難を抱えることになるでしょう。

ところが、そんな思いをしないで成り立つやりとりがあります。

それはアサーション。

「自分も相手も大切にする自己表現」という意味を持つ、コミュニケーションの考え方と方法です。

(『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』より引用)

上記の引用の通り、コミュニケーションは互いに思いを伝え合うことで成り立ちます。

ですが、思いそのものがなければ伝え合うことが出来ません。

会話をしても思いを持っていない方が、相手からの思いを一方的に受け取るだけになってしまいます。

これでは無意識の我慢を溜め込んでしまうことになります。

なので、自分の思いを相手に伝えられなければなりません。

「自分の思いを持つこと」を、「わがままだ」とか「自分勝手だ」と思ってはいないでしょうか。

自分の思いを持つことは決してわがままでも、自分勝手でもありません。

その理由について、同じ章の『コミュニケーションにおける3つの自己表現』から『・第3の自己表現「アサーション」』で以下の通り答えています。

アサーションとは、立場や役割を大切にしながらも、互いを一人の人間として大切にすることであり、そんな自己表現がアサーティブな自己表現です。

アサーティブな自己表現は我慢したり、我慢させたりすることがないやり取りです。

我慢する人、思いを抑えてしまう人は、まず相手のことを考え、配慮してから自分の態度を決める傾向があります。

ところがアサーションでは、まず自分のことを考えます。

それはわがままでも身勝手でもなく、自分の気持ちや考えが分からないと話にならないからです。

そして、「気持ちや考えを相手に伝えた方が自分を大切にしている」と判断したら、それを正直にわかりやすく、相手を大切にする気持ちを込めて表現してみます。

その結果、相手はあなたに同意することもあれば、同意しないこともあるでしょう。

それが人と人との自然なやり取りであり、同意されず葛藤があるときは、互いに歩み寄りの話し合いを続けることになります。

相手に逆らうと嫌われる、生意気だと思われる。

そうしたら友達は出来なくなるし、物事がやりにくくなるといろいろ想像して我慢する時、人は葛藤を避け、相手が嫌な思いをしないように動こうとしているのでしょう。

しかし、それは無意識のうちに自分の考えを明確にすることを止め、自分を軽視していくことになりかねません。

それはアサーティブでもなければ、自然体でもないでしょう。

(『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』より引用)

アサーションは、「自分も相手も大切にする自己表現」という意味です。

「自分」が先に来ている通り、まずは自分のことを優先させていいんです。

私達はつい自分のことを遠慮してしまいがちですが、そこで相手を優先させてしまうとこれまで説明してきた通り自分が無くなってしまいます。

最初に大切すべきなのは自分なのですから、まずは自分のことに意識を向けてみましょう。

自分の中で思いを見つけたら、その思いを相手に伝える段階に入りますが、いざ相手に伝えようとするとためらいや抵抗感が生まれてしまいます。

では、相手に自分の思いを伝えようとする際には、何を心掛ければいいのでしょうか。

本書の『4章 《実践》アサーティブに「思い」を伝える』から『「言ってみる」ことから始めよう』で、心掛けるべきことについて以下の通り言及しています。

思いを抑えてしまう人の多くは、自分が言いたいことより相手の反応の方を気にします。

「本当はこうしたい。本音ではこう言いたい」

でも、それを伝えると、相手は「うん」と言わないかもしれない。

その時、相手は気を悪くして怒るかもしれない。

そうすると自分も嫌な思いをすることになる。

それならいっそ言わない方が良い。

心の中でこんな葛藤が生じている場合も少なくないと思います。

これは裏を返せば、相手が自分に同意しない時、相手は嫌な気分になっているだろう。

気を悪くした相手が怒ったり、苛立ったりするのは当然。

だから、本音を言えば自分も嫌な思いをするはずだと思ってはいないでしょうか。

自分の思いを伝える時、内心では思い通りの反応を返して欲しい気持ちがありながら、それが叶えられない時の相手と自分の嫌な気持ちを先読みして非主張的になるのです。

私たちは物事が期待通りに進み、思い通りに運ぶことを望んでいます。

そして、予想外のことが起こると戸惑い、がっかりしたり、慌てたり、苛立つこともあります。

こうした気持ちの背後には、思い通りにならないとき、苛立つのは当然。

苛立ちは相手の言動から起こるという思い込みがあります。

世の中のケンカの多くは、この「思い込みによる苛立ちのぶつけ合い」と言っても過言ではないでしょう。

それでは、同じように思い通りにならない状況に出会った時、実際誰もが同じ反応をしているでしょうか?

決してそうとは限りません。

我慢も苛立ちもしない人もたくさんいます。

なぜなら、人は違った意見を持ち、違った物の見方をしているからです。

物の見方や意見が違うと、ズレや葛藤が起こるのは自然なことです。

相手と意見が一致しないときは、「思い通りにしないと怒られて嫌な思いをする」ではなく、「人は互いに同じように考えているとは限らない、不一致はありえる」と考えましょう。

相手の反応を勝手に先取りして逡巡せず、思っていることを素直に伝えてみたら不一致も起こらず、コミュニケーションがスムーズに進むことがあります。

「~すべきだ、~のはずだ、~で当然だ」という思い込みは、大切にしたい思いを抑圧し、自分を苦しめていることがあります。

私たちのコミュニケーションは互いに言ってみる、つまり言って互いにその経過を見ることから始まるのだと考えましょう。

(『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』より引用)

自分の思っていることが、相手も同じ様に思っていたり、考えているとは限りません。

それは結局、相手に確認してみないとわからないことです。

当たり前のことですが、一人で考え込んでしまうとそのことがつい頭から抜け落ちてしまいます。

自分勝手に相手の反応を決めつけたり、自分の意見を抑え込む必要は本来ないのです。

コミュニケーションは相手がいて初めて成り立つのですから、自分の思い込みだけで決めつけずに相手の意見も聞くために確認することはコミュニケーションにおいて重要なことです。

これがアサーションの「自分も相手も大切にする自己表現」の「相手も大切にする」ことなのではないでしょうか。

そして私達は自分と相手は違った意見を持つこと、違った物の見方をしていることを強く意識しなければなりません。

もし意見や思いが互いに合わなくても、自分と相手はそもそも違うのですから、不一致が起きても自然なことだと受け入れられるように心の準備をしておくべきです。

例え不一致が起きても、そこで無理に相手に合わせる必要はありません。

無意識の我慢を溜め込んでしまう原因にもなりますし、「自分と相手は違うんだ」と自分の心の中で折り合いをつけましょう。

そうやってアサーションを意識して相手とコミュニケーションを取り続けていけば、自分も相手も大切に出来る境界線がどこかを会話の中で自然と見つけられるはずです。

ここまでアサーションの基本的な概要について触れてきましたが、本書ではアサーションを行う具体的な方法について、より踏み込んだ内容をわかりやすく記載されています。

あなたが自分のことも相手のことも大切に出来るように、本書をぜひ読んでみてはいかがでしょうか。

本記事を最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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