ゲームで刹那的に感じるメメント・モリは本来の意味から外れた造語に過ぎません『あした死ぬかもよ?』

心理的な抑圧を緩和する
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「メメント・モリ」とは何か

メメント・モリという言葉をご存知でしょうか。

古代ローマで凱旋した将軍が、観衆に手厚く迎えられるパレードを行う際に、必ず従者をつけてこの言葉をささやかせました。

メメント・モリの言葉の意味は「死を忘れるな」です。

自分はいつか死ぬ存在であることを忘れなければ、有頂天になることもなく、物事を正しく判断できると考えられていたからです。

近年ではゲームの世界でこの言葉をよく見かけるようになりました。

メメント・モリはゲームのタイトルになったり、ゲーム内のアイテムとして登場したり、必殺技の名称として採用されたりと幅広い定義を持っています。

その中でもゲーム用語としての代表的な意味は「プレイヤーが相手から倒されてしまったときに使用する」場面ではないでしょうか。

最近のゲームは技術の向上によりとてもリアルに作られているので没入感があり、プレイヤーがゲームのキャラクターと同一化しているような状態に簡単になれます。

その際に相手から倒されるとまるでゲームのキャラクターと同一化している自分自身が攻撃を受けて倒されてしまったと錯覚してしまい、その瞬間に死を感じられるようであることから、この状況を一言で言い表せる「メメント・モリ」という言葉が便利で流行したのだと推測します。

ですが、ゲームという仮想空間で刹那的に疑似的な死を迎えることが「死を忘れるな」という意味合いを持つメメント・モリに本当に向き合えたといえるのでしょうか。

この言葉に真剣に向き合うとどんな世界が見えるのでしょうか。

今回ご紹介する『あした死ぬかもよ?』は死について真剣に向き合わせてくれる本です。

本来の意味を持つ方の「メメント・モリ」と向き合うには

『あした死ぬかもよ?』の副題は『人生最後の日に笑って死ねる27の質問』で、本書では死と向き合うために様々な質問を問いかけられます。

「人生を終える日、どんな気持ちになっていたら最高ですか?」の質問から始まり、「あなたの人生は、100点満点中、いま何点?」や「いま抱えている悩みは、たとえ人生最後の日であっても、深刻ですか?」など質問だけで思わずドキッとしてしまいますが、書かれている内容を読んでさらに胸が締め付けられる思いになり、何度も目頭が熱くなりました。

どの質問に対する内容も印象的で非常に感動したのですが、その中でも私が特に印象深かったのが、「誰になろうとしているんですか?」という質問です。

人は誰しも、頭の中で「私は死にません」という思いで生きています。

なので、「死ぬかもしれない」と思ったとき、恐怖が現れるのです。だから「私は死にません」という思いを早く消してしまったほうがいい。人は死ぬものであると自覚することから正しい見方が生まれ、明るい哲学が生まれるのだと。

(『あした死ぬかもよ?』より引用)

私たちが普段日常生活を過ごしている日本では「死ぬかもしれない」という場面に遭遇することは早々ないことだと思います。

戦争がなく、水と食料が豊富で、安全な場所で快適な生活を日々過ごしていると「死ぬかもしれない」とは思わずに「生きていることが当たり前」であり、「私は死にません」という思いが根底に根差してしまうのは当然のことでしょう。

平和であることなのはもちろんいいことなのですが、自分自身が死を自覚できない認識があることが問題なのです。

「死ぬかもしれない」と身近に感じさせてくれるものと言えば、冒頭に挙げたゲームやスカイダイビング、ジェットコースターなど「本質的な意味で死を自覚させてくれる」体験というよりも、「安全圏から死に出来るだけ近づいて、その瞬間的に死を感じられることで生まれる恐怖心を楽しむ」娯楽ばかりです。

本来、人は死ぬものであると自覚することは長時間かけて向き合うことで形成されるものです。

「実際に自分が死ぬその間際にはどんな感情が芽生えるのだろう」など死に関して様々な想定を立てて思いを巡らせることで徐々に形成されていくものであり、安全圏から刹那的に死を感じられる娯楽では形成されません。

実際に死と向き合うためにタイのお寺では、実物の死体を見ながら瞑想する修行さえあるのです。

メメント・モリの「死を忘れるな」という言葉は、意味と背景を正しく理解した上でその言葉を常に意識しているからこそ、今生きていることを強く実感出来ます。

今まであまり向き合ってこなかった死について真剣に考えて向き合う機会として、そしてメメント・モリの本質的な意味を理解するために本書をぜひ読んでみてはいかがでしょうか。

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