「普通」という言葉が持つ違和感
アンデルセン童話に「マッチ売りの少女」という童話があります。
裕福な家庭に生まれた少女が母親の死をきっかけに父親が働なくなり、生活費を稼ぐために冬空の下でマッチを売ろうとするも全く売れず、暖を取るためにマッチを一本付ける度に昔の家庭が円満で幸せだったころの思い出がよみがえるので、最後は売り物のマッチを全て燃やしてその思い出に浸り、次の日には亡くなってしまいます。
ご存知の方も多いかとは思いますが、ざっくりとしたあらすじを紹介させて頂きました。
マッチ売りの少女はマッチに火を灯した際に、周囲の人たちと同じようにクリスマスに大好きな家族と豪華な料理に囲まれた「普通」の生活を夢見ています。
物語においてこの様な境遇が悪い中で育ってきた登場人物が「普通の生活がしたかっただけなのに」とか「普通というものにとても憧れていた」と心境を告白する場面でも「普通」という言葉をよく見かけます。
日常生活においても、親御さんが「この子には普通に育って欲しい」と言ったり、就職活動を行っている学生が「仕事があって家庭があって普通の生活を手にいれたい」と発言するような「普通」の使われ方もされています。
理想を語るシチュエーションにおいて使用される「普通」にどこか違和感がありませんか。
今回ご紹介する「普通がいい」という病にはこの「普通」という言葉の使われ方に関して焦点を当てています。
「言葉の手垢」とは何か
本書の中では「普通」に関して以下の通り解説されています。
「普通」という言葉には、平凡で皆と同じことが良いことなんだとか、「普通」に生きることが幸せに違いない、という偏った価値観がベッタリとくっついています。つまり、「普通」になれば「普通」に幸せになれると思い込んでいるわけです。しかし、幸せというものには、「普通」はない。なぜなら、「普通」ではないのが、幸せの本質だからです。
(『「普通がいい」という病』から引用)
そして本書では偏った価値観がベッタリとくっついていることを「言葉の手垢」と呼んでいます。
この「言葉の手垢」にまみれた言葉はたくさんあります、というよりも世の中には手垢にまみれた言葉だらけではないでしょうか。
先ほど紹介した物語の登場人物だけではなく、現実で日常生活を送っている人ですら使用しているのですから、多くの人の手にどんどん回っていて手垢まみれですよね。
読者の皆様の中にもそんな手垢にまみれた言葉を、自分の中に取り込んで使用されている方がいることでしょう。
かくいう私もその一人でした。
以前までは、言葉の手垢にまみれた「普通」に対して強い憧れがありました。
ただそれは周囲の人を常に意識するあまり、自分と他者を比較して自分が持っていなくて相手が持っている物をただ羨んでいるだけというニュアンスで使用していたことに気が付きました。
そのことに気付けたのは幼少期の頃は「普通」に憧れていなかったことを思い出したからです。
もっとシンプルで単純明快な自分の思いを言葉にしていました。
ですが、大人になるにつれて偏った価値観や背景のある手垢にまみれた言葉に囲まれている内に、次第に自分の中にもそういった言葉が取り込まれていき、私自身が本来使用したい言葉から徐々にすり替わっていたのだと考えています。
本書を読んでみて、あなたの中に染み込んだ「言葉の手垢」を見つめ直してはいかがでしょうか。
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