仏教の本質はディズニーランドに例えるとわかりやすくなります『自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』

心理的な抑圧を緩和する
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ディズニーランドから外に出た時に出るある言葉が仏教の本質を捉えている

ディズニーランドはよく「夢の国」と比喩されています。

園内に入れば、楽しいアトラクションがあって、胸が躍るようなショーが見れて、料理も世界観に合った見て楽しい食べておいしいという夢の様な時間が過ごせることから、「夢の国」と比喩されるのも頷けます。

実際に、ディズニーランドから外に出た時に名残惜しさから「現実に戻ってしまう」と口に出したことがある人もいるでしょう。

実はここに仏教の本質が隠されているのです。

この仏教の本質を知ることで、人生が生きやすくなった人がいます。

そんな人生が生きやすくなった人が難しそうなイメージを持たれがちな仏教をディズニーランドに例えて、とてもわかりやすく解説しているのが今回ご紹介する『自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』です。

いつも本サイトを訪れて記事を読んでいただき、ありがとうございます。

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東洋哲学者の龍樹(りゅうじゅ)とは

著者のしんめいPさんは32歳で無職になり、離婚を経験します。

虚無感に襲われて、実家のベッドから起き上がれない日々から脱却しようと本を読み始めました。

自己啓発書から西洋哲学と渡り歩き、最後に辿り着いたのが東洋哲学でした。

東洋哲学の内のインド哲学のメインテーマは「本当の自分って何だろう」。

著者は「本当の自分って何だろう」という問いに東洋哲学から答えを導き出し、虚無感から脱出して本書を書き上げました。

東洋哲学は「どう生きればいいか」がテーマなこと、そして「答えがある」ことがいいところだと著者は述べています。

よく哲学は答えがないと言われがちですが、東洋哲学にはしっかり答えがあります。

著者は自身の経験から、東洋哲学は楽になるための哲学だと語っています。

そして、この本は哲学エッセイです。

著者は学者でも僧侶でもないので、東洋哲学を一人の無職がこう受け取ったんだなと思って気楽に読んで欲しいと前置きで本書を紹介しています。

本書では7人の東洋哲学者が登場します。

ブッダ、龍樹(りゅうじゅ)、老子、荘子、達磨、親鸞、空海の計7人です。

どの東洋哲学者も奥が深く、著者の解説もとてもわかりやすかったのですが、この7人の中で私が一番衝撃を受けたのが龍樹です。

そもそも龍樹とはどんな人かご存知でしょうか。

他の6人はメジャーな方ばかりなので、どこかでその名前を聞いたことはあるかと思いますが、龍樹という名前は初めて知った方もいることかと思います。

私もこの7人の内、龍樹の名前を聞いたのは初めてでした。

龍樹とはどんな人なのかを本書ではこう説明しています。

ブッダが死んでから700年。

当時の仏教は危機にあった。

なぜか鬼のように複雑な教えになってしまったのだ。

ブッダの時は、「心、よく観察してみ?自分がないってわかって楽になるよ?」という超シンプルな教えだった。

しかし、ブッダがいなくなると「自分がない」というわかるようなわからないような感じにみんな迷っちゃったのだ。

そして、700年間学者達が大論争し教えが一つの本にまとめられた。

その名も「阿毘達磨大毘婆沙論(あびだつま だいびばしゃろん)」。

タイトルすら誰も読めねえ。

この本なんと全部で200巻ある。

こち亀かな?

そんな教え、一般人には絶対届かない。

ていうか、当時のほとんどの人、文字読めないから。

仏教は超ハードルが高いものとなり、民衆の心は離れていった。

この状況、何かが決定的におかしい。

例えるなら、恋愛マスターが「こうすればモテるよ」と教えていたのに、弟子が「モテとは何か」という200巻の論文を書いてしまったような状況である。

最もモテない行動である。

そんな仏教の危機に表れたのが、インドのひろゆき、龍樹である。

龍樹は天才であったが、頭でっかちではなかった。

黒歴史を経て、仏教の道に入ったのだ。

人間性終わってても、変われるというのを身をもって体現したのである。

そして、700年間の議論の全てを「くだらねえ言葉遊び」と論破し、衝撃の結論に至る。

龍樹によって、200巻の教えになっていたブッダの教えは一文字になったのだ。

ひ、一文字!?そんな減る!?

漢字で「空」と書いて「くう」である。

「この世界は全て空である」

龍樹によって仏教は超シンプルな教えになり、誰でも大丈夫な仏教、その名も大乗仏教として大復活を遂げた。

龍樹のおかげで、仏教は世界宗教になる。

日本の仏教も、ほぼ全部大乗仏教である。

本書の「インド中を論破する」の章の文章を引用して、龍樹とその功績についてお伝えしました。

「論破する」や「ひろゆき」という西村博之さんに関係するキーワードが出てきますが、これは著者が龍樹に関する絵を見た時に外見が西村博之さんにそっくりだと思ったエピソードから来ています。

本書にも図がありますので、ぜひ見てみてください。

私も拝見しましたが、確かにそっくりでした。

話を戻します。

龍樹がどんな人物なのかを理解出来ましたが、ここで新しい疑問が生まれます。

「この世界は空である」の「空」とは一体何なのでしょうか。

本書では次の通り説明しています。

「この世界は全て空である」

どういうことか、龍樹の言葉を紹介しよう。

この世の全てはただ心のみであって、あたかも幻の姿の様に存在している。

(大乗についての24句編18)

全ては幻である。

こう言い換えてみよう。

この世界は全てフィクションであるということだ。

フィクション、この一言でブッダの「自分がない」の意味が超クリアになるのだ。

このフィクションについて著者はわかりやすい例を挙げてこう続けます。

フィクション、例えばミッキーマウスである。

ここで一つ考えてみよう。

「ミッキーマウスは存在するか?」と聞かれたら、どう答えるだろうか?

みんなの心にはいる、でも実際にはいない。

いるとも、いないとも決められない。

この絶妙な感じ、これが「空」なのだ。

著者は龍樹はこう言いたかったとして、「この世は全てディズニーランドである」と表現しています。

ディズニーランド。

確かにフィクションの塊のような場所であることに違いはありません。

でも、そのフィクションを見ている人の反応はどうでしょうか。

今あなたがディズニーランドにいる人々を想像したとき、想像した人々の表情は笑っているのではないでしょうか。

ディズニーランドの世界はフィクションだけれども、その場にいる人々は作り笑いではなく本物の笑顔を見せている。

ここにもいるとも、いないとも決められない絶妙な感じが確かに存在します。

「空」の概念がなんとなくでも掴めるような秀逸な例えだと感心しました。

ですが、ディズニーランドだけではなく、この世界そのものが「空」であると龍樹は述べています。

ちなみにここで言う「世界」とは私達が生きている社会そのものなのですが、ここにも龍樹の独特の見解があります。

「世界」の見解

ディズニーランドがフィクションの世界なのはみんな知ってる。

しかし、この世界が全てフィクションとはどういうことか。

龍樹はこう言っている。

「この世界は言葉の虚構から生じている」

(宝行王正論(ほうぎょうおうしょうろん)1の50)

この世界は言葉の魔法が生み出した幻なのだ。

(『自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』より引用)

「言葉の魔法」とは肩書きがあると先入観を持ってしまう現象が起きることです。

例えば、男性がいたとして、「年収5000万円」とか「企業のCEO」などの情報を事前に伝えるとその男性は立派そうに見えるし、「無職」とか「年齢不詳」などの情報を事前に伝えると怪しそうに見えます。

男性であるのは変わってないのに、肩書きが変わるだけでその人に抱く印象はかなり変わってしまいます。

これが「言葉の魔法」です。

肩書きがない人はこの世界には存在しません。

これは全ての人が例外なく「言葉の魔法」にかかっていることを示しています。

その様に考えると「この世界は全て空である」という龍樹の言葉も理解出来るでしょう。

冒頭で例を挙げたディズニーランドから外に出た時に「現実に戻ってしまう」という言葉も、結局はフィクションからフィクションに移動しているだけだということがわかります。

では、フィクションの外の世界には一体何があるのでしょうか。

著者は次の通り見解を示しています。

「強い」、「弱い」、「良い」、「悪い」、「ある」、「ない」、全部フィクションである。

フィクションの世界を出てしまえば、そこは「空」。

全てが繋がっている縁起の世界なのだ。

「強い」、「弱い」、「良い」、「悪い」、「ある」、「ない」、全て縁次第でどんどん変わっていく。

自分の変わらない本質は成立しない。

つまり、普遍の個性、普遍の性格、普遍のアイデンティティはあり得ないのだ。

これ、「空」の哲学のすごく大切なポイントだ。

僕たちが悩むときにやってしまいがちなこと。

自分が「弱い」と前提を置いて、だから「恋人が出来ない」と結論付ける。

こんな感じで論理を組み立てて悩む。

龍樹、こういうの全部論破してくるよ、気を付けて。

まず、自分が「弱い」という前提がおかしい。

「強い」というペアの相手がいないやん。

相手がいないのに、「彼氏です」と自称するのと同じくらいおかしい。

自分が弱いという前提が成立しないので、「彼氏が出来ない」という結論も成立しない。

自分は弱い、だから恋人が出来ない。

こういう悩みは全部成り立たないのだ。

こういうのも成り立たない。

自分は才能がない、だから仕事が出来ない。

龍樹はこういう間違った思考を「戯論(けろん)」と呼んだ。

クソしょうもない考えという意味だ。

自分でクソしょうもない考えに入り込んで、出られなくなっているのが僕たちの姿なのだ。

この世界に変わらないことなど存在しません。

時間が流れれば、万物にも変化という流れが必ず訪れます。

人間も赤ん坊から成長し、少年になり、青年になり、老人になります。

肉体的な変化は必ず訪れて受け入れられるのに、自らの思考や意見などの精神的な変化が変わることを受け入れられない人は大勢います。

自分の思考に固執することで自らのアイデンティティを保とうとしますが、そもそもアイデンティティもフィクションであり最初から存在しません。

縁というきっかけがあれば、どんどん変わっていくものだからです。

例えば、携帯電話も姿かたちをどんどん変えていきました。

最初はカバンの様な形だったのに、ガラパゴス携帯となり、今ではスマートフォンとなっています。

「通信機器を持ち運べるようにする」という本質からスタートしたであろうにも関わらず、今のスマートフォンでは「数ある機能や性能の中からそういう側面もある」内のひとつに変わりました。

そういった変化は受け入れられるのに、なぜか自分が変わっていくことが目の前にあっても受け入れられない人がいます。

自分の中で意見が変わると「こんなに簡単に変えていいのかな」というためらいが生じるからではないでしょうか。

ですが、「変わらない」ことの方がよほど不自然です。

物理的な変化が人間の生活を豊かにしてくれるように、精神的な変化も人間の生活も豊かにしてくれます。

今まで考えていたことや価値観が変わることは恐怖でもなんでもなく、それが自然の流れだと受け入れてしまえば変わっていくことも怖くありません。

それにこの変化はあなたをいい方向に導いてくれます。

そう考えることによって、「クソしょうもない考え」に入り込んでしまっても、そこから出られるようになるでしょう。

本書で紹介されている7人の東洋哲学者の内の1人の龍樹を紹介しました。

他の6人も著者の例えと解説がわかりやすく、気軽な気持ちで東洋哲学を学ぶことが出来ます。

今まで難しそうだと感じていた仏教を理解して、あなたなりの答えを見つけ出す「縁」として本書をぜひ読んでみてはいかがでしょうか。

本記事を最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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